第12話

 第12話


 自宅に帰ると妹の朱がソファーにうつ伏せになり足をバタバタさせてスマホを弄っていた。伸びきったスウェットの部屋着を着て、靴下を脱ぎ散らかしトレーナが少し捲れ背中が見えている。だらしないなあ、この姿を彼が知ったら幻滅しそう。


「あ、おかえりー。ご飯先に食べちゃったよ」

「うん、今日はカレー?」


 部屋に入った途端カレーの匂いが充満していた。「今夜の夕食何だ?」と100人に聞いたら99人はカレーと答えるであろう。


「そうだよ」

「姉ちゃんバイト?」

「うん」


 さて、どうしたものか。彼と約束をしてしまった以上それを果たさなくてはならない。妹とこういう会話をした事が無い僕にとってはかなりハードルが高い。それでも覚悟を決めた僕はテーブルの椅子に腰かけ、


「なあ、朱」

「なに?」


「えーっとさ、お前モテるんだな」

「急になによー? どこ情報? それ」


 僕は今日の出来事を包み隠さず話した。


「その人カッコイイ?」

「うーん……どうなんだろう。同性だと判んないなあ」

「まあ、話を聞くだけなら聞いてもいいよ」

「じゃあ電話番号教えてもいいのか?」

「ストーカーとかしてくるような人じゃないよね?」


 そんなの知らないよ。今日初めて話した人だし。まあそんな奴なら僕が朱を守ってやるから心配するな。その旨伝えると、


「じゃあいいよ」と朱。


 ずっと子供だと思っていたのに少しづつ大人になって行く妹を見てなんだか少し寂しい想いがした。


 僕はカレーを温めるために席を立ち、

「福神漬けある?」と聞いた。



 ――――――――


「こちらになります」

 僕たちは恐ろしい程静かな廊下を歩き、足音だけが反響し木魂を呼び寄せていた。


「他にご親族の方は?」

「祖父と祖母が後から来ます」と姉が答えた。


「こちらです」


 案内された部屋は一面タイル張りで中央にスチール製のベッドの様な物が4つ置かれている。


 その内の二つに白い布が掛けられていた。


「よろしいですか?」


 僕たちは無言で頷く。白い布が剥ぎ取られると、綺麗な顔をした両親が横たわっていた。まるで眠る様に…………。


「母さん、父さん……」と僕が語り掛けると両親はそっと微笑み、しかし次第に顔の穴と言う穴から血が噴き出し、顔は歪に潰れていき、最後は人の顔ではなくなった。


 うわあああああああああああ!


 ――――――――


「はあっ!……はあ、はあ、はあ……」


 夢だ。


「はあ、はあ、はあ……」


 時計を見ると午前1時を過ぎたところだった。びっしょりと汗をかき、喉もカラカラだ。僕は着替えるためベッドから抜け出し、タンスから新しいTシャツを引っ張り出しそれに着替えると、水を飲むため部屋を出た。


 キッチンへ向かう途中、両親の仏壇がある部屋の明かりが点いている事に気が付く。おや? 誰かいるのだろうか? 僕は恐るおそる部屋に近付くとそっと中の様子を覗った。 

 

 そこには両親の仏壇の前にへたり込み、缶のチューハイを片手にクスンクスンと泣いている姉がいた。その姿を見た僕は心臓を握り潰されたような感覚がした。


 両親の遺体を確認した時、姉は泣きに泣いて泣き崩れた。だけれど、それ以来姉の涙と言う物を僕は見た事が無い。今まで泣かなかったんじゃないんだ。僕達に涙を見せなかっただけなんだ。


 喉が締め付けられる様な感じがして、見てはいけないものを見てしまったと言う感覚と、どうして見せてくれなかったんだという思いが同時に湧いてきて、


「姉ちゃん」と声をかけていた。


「はっ!? タ、タロさん?」と言って慌てて涙を拭う。僕は努めて穏やかに、


「そのままでいいから」と言い姉の横に座った。


 きっと僕達が不安にならない様に気丈に振舞ってきたんだ。本当は誰よりも泣きたいくせに強がって。家事をこなし大学に通ってバイトまでして。強いなあ。


「ご、ごめん、恥ずかしい姿見せちゃって」


 アルコールのせいなのか頬がほんのりと紅に色づき潤んだ眸は優しく僕を見つめている。その姿を見て、この人も普通の女性なんだと認識させられた。


「あんまり頑張り過ぎないで」

「なあに? 珍しいのね」

 僕は姉の視線から逃れる様に両親の遺影に向きを変える。


「無理して体でも壊しっちゃったらそれこそ母さん達が悲しむよ」


「あら? 優しいのね。でも心配しないで、別に無理なんかしてないから。本当はね、寂しくて、悲しいの。だから何かに没頭していないと悲しみに押しつぶされちゃうの。ぼーっとしてたらお母さん達の事ばかり考えちゃうの。このくらい忙しい日々に忙殺されてた方が私は楽なのよ」


「手伝える事があったら言ってよ」


「うふふ、どうしたの珍しい。でもありがとう。タロさんは優しいのね、モテるでしょう?」

「そんな事ないよ」と言って顔を背けた。


「姉ちゃんさ、恋人とかいるの?」

「なあに? 急に。恋人は……いないかな。うふふ、でも恋をしている人ならいるかな」

「え? そうなんだ」


 意外だった。いつも僕達に母親の様に接し甲斐甲斐しく世話をしてくれる姉にもそういう人はいるんだ。


「不安になったりしないの?」

「どういう事?」


「んー、例えばさ、仮にその人と恋人になれたとして、将来結婚したりして、でもいつか、ずっと先かも知れないけれど、その人と別れる時が来るじゃん。それを思うと不安にならないの?」


 姉は不思議そうに首をかしげ、「うーん」と言ってから、


「人を愛する事ってそういう事も含めて愛するんじゃないかな? いつかその人とお別れするとき、悲しければ悲しむほど、ちゃんとこの人を大切にして、愛してきたんだって自信を持って言えると思うし、逆に私が先に死ぬ時も、相手が悲しんでくれれば、ちゃんと大切にして愛してくれたんだって思えると思う。人間ってさ、勿論自分が大切にした人を失う時は寂しいと思うけれど、自分を大切にしてくれた人を失う時もずっと悲しいと思うの。愛し合うって言う事はそういう事よ」と言ってチューハイをぐびりと一口飲む。


「ゴメンね、酔ってるから意味解んないよね」と言った。


 ちゃんと愛し、愛されれば別れる時も後悔はしないのであろうか。ちゃんと大切にし、大切にされれば別れる時も後悔しないのだろうか。


「珍しいね、姉ちゃんが飲むなんて」

「ふふふ、二十歳になったからね」

「父さんもお酒好きだったよね」

「そうね、良く言ってたわ。太郎が大人になったら一緒に飲むんだってね」

「そう……」


 僕は姉が持っている缶のチューハイを掴み、姉の手から引き抜くと、


「僕にも少しくれよ」と言った。


「あなたはまだ飲めないでしょう?」

「今日くらい良いじゃん」と言って一気にあおった。


 その飲み物はほんのり甘くて、ほんのり苦くて。姉の涙を見た僕の心を現した様な味がした。


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