第5話

 家に帰ると長富杏香と小春は誕生日パーティーの残り物でお酒を飲んでいた。


「お帰り。送り狼されなかったか?」

 ケラケラと笑う酔っ払いの長富杏香。

 逆だろ普通は…


 ジト目で見られていることに気づいたのか、冗談だよって苦笑している。


「私の弟は格好いいでしょ?昔は、ねぇね、ねぇねってついて回ってきてすごく可愛かったんだから」

 あれま。珍しくねぇねも酔っ払っているみたいで、呂律が回っていない。

 2人でいかにもな感じの酔っ払い談義をしているのは見ていて楽しい。

 苦笑しながらそのやり取りを見ていた。


 そんな二人の酔っ払いの話題が俺になりそうなのを察知して、二言三言は付き合ったが、逃げるようにリビングを後にする。

 一度部屋に戻り、買ってもらった(仮)服やズボンをハンガーに掛け、クローゼットの中にぶら下げた。


 そのまま風呂場まで行くと残りの洋服を脱衣所で脱ごうとしたところで、絶対に忘れてはいけない事に気づいてしまう。


 そう。佐藤愛子は今日帰宅していないのだ。


 リビングにいなかったし、俺の部屋にもいなかったし、もうすでにねぇねか長富杏香の部屋で寝てる可能性もあったのだが、その可能性が薄いことは、風呂場の電気がついてる事で容易に分かる。

 不思議に思わなかった俺を過去に戻ってぶっ飛ばしたい。


 パンツだけを残し、Tシャツを脱ごうとした時に気づいて動きを止めていた事が功を奏して、風呂場から出てこようとしてる佐藤愛子の裸を一切見ることは無かったのが唯一の救いだと思う。

 風呂場のドアが開く音で、全ての想像が繋がり、再び風呂場のドアが閉まった。


「誓ってもいい!絶対に全く見てないから!Tシャツのおかげで全く見えてないから」


「うん。大丈夫。お風呂出てきたらたっちゃんいたからビックリしたけど、もし見られてもたっちゃんなら平気だから…恥ずかしいけど…」


「な、アホか…とりあえず行くわ。部屋にいるから出たら教えてくれ。本当ごめん」

 彼女がドアを開けた瞬間に得も言われぬ良い匂いがして、それは顔が隠れていても凄くよく分かって、逃げるようにその場所を後にする事にした。


 部屋に戻るときに、脱ごうとしていたTシャツを再び着て、ベットに腰掛けたのだが、どうしても佐藤愛子の匂いと声が頭から離れない。


 こうなったら…

 以前、チームのメンタルサポートの講習があったときに、普段から心を落ち着かせる癖を付けるためにも瞑想とかを取り入れるといいですよって言われたのを思い出した。

 ベットの上で座禅を組み、気分を落ち着かせるように努める。

 心頭滅却、心頭滅却。

 武田側に着いたお坊さんが、織田信長に寺ごと燃やされた時に言った文言になぞらえて俺も何度も呟く。

 一向に燃え盛る俺の心は全然涼しくなってくれない。

 快川和尚かいせんおしょうよ俺にもその極意を教えてくれ!

 ほんの数分で気分が落ち着くほど達観していない俺に


「お風呂出たよ。ごめんね先に使わせてもらっちゃって」

 ノックの後顔だけを入れるように俺の部屋を覗く佐藤愛子は、俺の座禅姿に驚いているのが分かる。


「なに…してるの?」

 座禅。と一言呟く。目を瞑っていたのでよく分からないが、笑っているようだ。


「入ってもいい?」

 同じように無言で頷くのを見たであろう佐藤愛子が部屋に入ってきて、俺の横が少し沈んだ感覚があったので、ベットに腰掛け、俺の隣に座ったようだ。


 シャンプーの香りなのかボデーソープの香りなのか、それとも彼女の元からの匂いなのか…

 ま、とにかくこんな時に隣に座るんじゃねえよって思いしかないとてもいい匂いを振りまいている。

 心頭滅却だけじゃ足りなくて、平気虚心へいききょしんとか虚心坦懐きょしんたんかいとかなんならもう諸行無常とか祇園精舎とか蚊取線香でも焼肉定食でもいい!

 四文字熟語なら何でも来い!俺の頭よ四文字熟語のみを考えろ!煩悩よ消え去れ!って心の中で叫びまくっているのだが


「何のために座禅をしているのかよく分からないんだけど、そんな時でも変な妄想をしているのが、たっちゃんの顔を見たらすぐ分かるよつになった私は少し褒められてもいいと思わない?

 目を瞑っていても、薄く笑われてるのが分かってしまったのが罰が悪くて、目を開けると、寝る格好に着替えている佐藤愛子が思ったより近くにいて、驚いて距離をとった。

 それが不満だったのか、少しだけ唇を尖らせると、離れた分と同じ距離だけ近づいてくる。

 もう一度離れようとする前に、腕を掴まれてグイッと引き寄せられて、小さく首を横に振る。離れんじゃねえよクソボケがって事なんだと理解。

 軽く嘆息を吐き頷くと、それに満足したようにこてんと頭を肩に乗せられた。


「今日は本当にありがとう。私の我儘でたっちゃんに嫌な思いもさせちゃったし、たっちゃんの気持ちも考えずに暴走しちゃったし、小春さんの料理も凄く美味しかったし、彩音とか守谷さんとか杏香ちゃんが祝ってくれたのも嬉しかったし…凄く楽しいって何十回思った事か」

 そこで言葉を一度切ると、肩に乗せていた彼女の頭が離れ、少しだけ崩れた俺のヘアースタイルを直すように髪に触れてきた。


「たっちゃんがそばにいてくれて、一緒にわたしの誕生日を祝ってくれた事が凄く幸せ」

 顔をこちらに向けると、惚けたような目で俺を見つめる佐藤愛子がいる。


 多分ね、多分だけど、アニメとかだったらここで曲が流れ始めて、エンドロールが流れて、二人が静かに近づいていって、キスしちゃう流れなんだなって、流石にいくら俺でも気づくわけですよ。


 虚心坦懐きょしんたんかいとかもう全然無理で、心臓の鼓動は確実にいつもより早くて、さっきの佐藤愛子と同じように、彼女の髪に手をやるとそれをかきあげるようにして、そのまま彼女の頬に指先が触れた。

 俺今凄い頑張ってます。

 ピクリと動いた佐藤愛子はゆっくりと目を瞑って少しだけアゴを上げたような気がする。


 いいんだよね?いいんだよな?って思いながらその唇を見ていると、バンって何も言わずにドアが開いたかと思ったら


「小春こっちきてみ!!龍臣と愛子がイヤラシイ事しようとしてる!」

 って、これまた型にはまったような典型的な酔っ払いのように、ワインの瓶を持って大騒ぎしていて、二人で驚いて顔を見合わせた後に、どちらからともなく笑ってしまった。


 二人とも顔が赤いのは分かってるんだけど、それを言うこともしない。

 恥ずかしさを誤魔化すようにまた今度だねって言った佐藤愛子はその言葉で余計恥ずかしくなったのか、逃げるように部屋を出て行ったあと、思い出したかのように戻ってくると


「おやすみなさい」


 って優しい笑みで言ってから扉を閉めた。


 静かになった部屋で放心した後、枕に顔を埋めて、もっと早くキスすればよかったって叫んで見たものの、後の祭り。

以前の冗談の時とは絶対違う感じで本当にしていいやつっぽかったのに…


 その時の彼女の可愛い顔や、いい匂いを思い出しては恥ずかしくなり、出来なかった事に後悔して、被った布団の中でしばらくゴロゴロしながら悶えていた………


 結局、風呂にも入る事なく朝を迎えた事で、寝てしまったんだと気づいた。


 今日はサッカーの練習もあるしロッカールームでシャワーも浴びるだろうけど、この髪を今すぐ洗いたい…

 ヘアージェルが付いたであろう枕カバーを外し脱衣所に置いてある洗濯カゴに放り込む。

 Tシャツを脱ごうとしたところでなんだか既視感に襲われてゆっくりと風呂場を見ると、ガラッとドアが開いて、髪の毛を拭きながら出て来た長富杏香と思いっきり目があって二人で固まっていた。


 リビングで小春と佐藤愛子が作ってくれた朝食を、四人で仲良く食べるという構図では無い。

 小春の隣には長富杏香が未だに赤い顔をして俯き加減にコーヒーカップを持ちながら、正面に座る俺をチラチラと見てくるし、それになるべく目を合わさないように、まだ少し震える手でエックベネディクトを切り分けては口に運ぶ俺。その隣ではもの凄く朝から不機嫌の佐藤愛子が座っていて、その三人を苦笑しながら見ている小春。


 こう言う時に長富杏香は防御力がゼロに近いので気の利いたこと一つ言ってくれない。

 見ちゃった俺は何も言えることもなく、そんな俺に佐藤愛子は口も聞いてくれない。


 こんな事なら私も見せればよかった…って佐藤愛子の独り言は当然聞こえないふりをした。


 減るもんじゃ無いから大丈夫って長富杏香の言葉に何度も謝って今に至るのだが、全然大丈夫な感じしないし、本当にごめんなさいって今一度言ってから席を立った。


 部屋に戻ると、風呂場の出来事を思い出しては振り払い煩悩を消し去るように額に手を当て目を瞑る。

 時間も迫って来てるので、チームのジャージに着替えると、ベンチコートを羽織り出発の準備を整えた。


 出かける挨拶をするためにリビングに顔を出すと、小春に慰められている長富杏香がいて、俺と目が合うとまた真っ赤になってて、横で苦笑している小春に唇を尖らせている。

 その仕草も姪っ子そっくりだなって笑っていたら、もっと真っ赤な顔になった長富杏香が下を向いてしまった。


 あの人三十前にもなってピュア過ぎない?まさか処…いやいやいや、ありえないだろ…

 そんな事を思いながら玄関で靴を履いていると佐藤愛子が立っていて、一緒に行くとポツリと呟く彼女に無言で頷いた。


 いつもは恥ずかしい思いが強いのだが、不機嫌だった割には腕を組んで歩いてくれて、なんだかホッとしてしまった。


「そう言うラフな格好もきっちり着こなしてオシャレに見せるのが凄いな」

細い足がより細く見えるスキニーのデニムに白いシャツを着崩すように着ている。昨日の履いていたショートブーツとは違って、今日はミュールを履いていて、コートだけは昨日と同じものだった。


「あら私が不機嫌だったからお世辞?それともおべっか?たっちゃんに褒めてもらえるのは嬉しいから素直に喜んでおくわ。ありがとう」

 少しだけ長めに瞼を閉じて、浅い深呼吸を何回か繰り返していたように見える。


「たっちゃんも杏香ちゃんも悪くないって分かってるの。けどやっぱりモヤモヤしてあんな態度になって…その…ゴメンなさい」


「不貞腐れモードになると長いけど、今日は意外と短かったな。お前は例え自分が悪く無かったとしても、自分もこうだったからって今みたいに必ず謝ってくるんだよな。お前のそう言うとこは凄い好きだな」

 何も言わないから、不貞腐れモードって言ったのが気に入らないのかって隣を見ると、目があった瞬間にもう一度言って!好きってもう一度言ってってキラキラした目でぴょんぴょん跳ねてる。


「自分の都合の良い部分だけを抜粋して勘違いするお前は嫌い…」

 むーって言ってへの字口になって、俺がそれに吹き出すように笑うと、佐藤愛子も釣られて笑っていた。


 今回のは喧嘩とかじゃないけど、喧嘩してもすぐに仲直りできるような関係をこれから先も築けていけたらいいなって、笑っている彼女の顔を見て思っていた。

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