1章 epilogue

 日の出の時刻が早いこの季節は、いつもより少し早起きをした。

 それ自体を見たいわけじゃなく、俺が見たいのは夜の闇と朝の光が混じり合う空の境界線だ。


 まだ暗い時間に家を出て、走り始めるともうこんな時刻からすでに暑くて、いつもの公園に着くころにはそれにちょうど間に合う時間なはずだ。

 息を整えるように少し高台になっている場所で軽くストレッチをしていると、犬を連れた彼女が


「おはよう」

 って声をかけてきた俺の真上にいる彼女の顔を見上げると、いつものことだが、全く化粧もしていない顔なのに凄く美人で、ドキッとする。

 じっと見てる事に戸惑ったのか


「な、なに?じっと見て。リップ塗ってないから唇カサカサであんま見て欲しくないんだけど…」

 そう言って口を隠してモジモジしてる。


「可愛いなって思ったから見てたんだよ」

 固まる彼女が気配で分かる。

 俺いつからこんなイケメンな台詞が言えるよつになったのだろうか。ヒロインの隣に並ぶからには、これからもこれくらい言わないといけないのだろうか。

 クラスメイトAだった俺は、彼女のせいでその配役を下ろされそうになっている。

 今は何の役を演じればいいのか、演じなくてもいいのか、それもヒロイン次第かなと想像して笑っていたら、馬鹿にされたと思ったのか、しゃがみ込んできた佐藤愛子から背中を叩かれた。


「キスしてあげようか?」

 多分やり返してきてるんだと思う。そんな彼女がどこまでも可愛くて、もう一度可愛いねって言ったら息を呑んでいる。


「ズルい…」

 ポソりと呟く彼女の頭を撫でてあげた。


「チョコ一緒に行こう!」

 照れてる彼女のそばが恥ずかしくて、彼女の手からリードを受け取り、一緒に走り始めた。

 走っていると闇が溶けていき、空は光に満ちて、結局、今日は紫色の空が見えなかったなって独りごちた。

 しばらく走ったあと、水道に行きチョコに水を飲ませてあげると、嬉しそうにガブガブと飲んでいる。

 しゃがみ込んで頭を撫でると、飼い主と同じようにキョトンとした反応なのだがものすごく嬉しそうにそれに甘んじていた。


 ゆっくり歩き彼女の元へ戻ると、歩く俺たちを薄い微笑みで見つめている。

 その微笑みが好きで、彼女のその顔を見たくて、一番側でそれを見ていたくて変わろうとしたのだと思う。

 そんな事を知ってか知らずか、彼女はいつも同じ態度で俺に接してくれていたように思えた。

 時折俺にだけ見せていたその微笑みで、手を差し伸べてくれていた。

 一人で上がれないのなら一緒に行こう。

 そう言ってくれていた。


 彼女の元に戻ると、帰ろっかって手を伸ばした。

 笑いながらその手を取る彼女は、わざとよろける様にして俺に抱きついてくる。


「暑いんだけど…」


「こんな美人に朝から抱きつかれてんだから感謝しかないと思うけど?」


「そんな真っ赤な顔して生意気なこと言っても、説得力全くないけどな」

 抱きつかれるままにしてて手持ち無沙汰だった俺の左手を彼女の肩に回して少し力を込めた。

 自分から抱きついてきたくせに、ピクッと緊張した体になっている。

 肩まで回していた左手にリードを預け、お手隙になった右手で彼女のあたまを撫でてあげると、俺よりも小さい背の彼女の力が抜けるのが分かる。


「ねぇ。キスしてあげようか?」

 先程と同じ彼女のセリフ。


「カサカサの唇じゃない時にお願いします」

 少しだけ彼女の身体を離し、そう言って笑う俺に、少しムッとして、でも笑ってくれてて、それがなんだか嬉しくて、帰ろうって彼女の手を握りしめた。


 公園の遊歩道をゆっくり歩きながら


「ねえ?覚えてる?私最初、佳奈美のママに間違えられてたんだよ」

 ひどくない?って拗ねたようにくちびるを尖らせる彼女。

 チョコしか見てなかったからなって言ったのも気に食わなかったのか、むーって言って拗ねていた。

 犬可愛いですねって近寄ってくる男で本当に犬しか見なかったのは俺が初めてらしい。

 大抵はそのあと近くに住んでいるんですか?

 とか、

 この辺はよく来るんですか?

 とか言われて辟易して散歩に行くのすら嫌になっていったらしい。

 俺の場合、近寄ってきたのはあなたの愛犬からですからねって言ったら、あーそっか!チョコが私たちのキューピットだったんだね。って手を繋いでいない手でチョコを嬉しそうに撫でていた。

 隣に戻ってきた彼女に手を伸ばし、彼女の唇を親指で撫でてみた。全然カサカサなんかじゃなくて、ずっとそれに触れていたくて。

 当然そんな事をされて固まる彼女に


「好きだよ。愛子」

 って声に出して言ってみた。

 空はどこまでも青くて、空の境界線なんて全く見えなくて、境界線なんて空にも人にも引く必要はないんだよって言ってもらいたかったのかもしれない。

 隣に立つ覚悟を決めたから、俺は初めて彼女に好きだって言えたんだと思う。


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