第8話 愛子 story

 本当はもっとレベルが上の高校にも余裕で行けたと思う。

 本格的に受験勉強を始めると、元来負けず嫌いな性格もあってか、やればやるだけ成績は上がっていった。


 有名大学の附属校や国立高校も合格圏内に余裕で入った頃、同じ塾に通っていた子達からの嫌がらせを受けはじめた。


 誰かに負けたら次こそはと頑張っていたのはどうやら私だけだったらしい。


 努力しても勝てないと分かった人たちは欺瞞に走り、正当ではない方法で蹴落とそうしてくる。


 そもそも努力が報われることの少ない世の中なのに、そこで歩みを止める意味が私には分からない。

 同類の仲間を作り、コソコソと陰口を叩き、ヒソヒソと笑っている。


 そんな世界がとても醜く見えて、頑張る事が残酷な世界への扉を開く道筋なのかと嘆いた。

 悲しくもない。悔しくもない。怒りの感情すらない。

 けれどそういう事をしてきた人たちと、この先同じ空気など吸いたくもなかった。


 自室の窓に映る私の顔は、涙など一切出ていない。

 けど、どう見ても号泣してるようにしか見えないのはなんだか笑えて来る。


 そんな時に声をかけてくれたのが母方の親戚で、私のことも小さな頃から可愛がってくれている人だった。


「全国模試でそれなりの成績を上げている者には物足りないレベルなのかもしれないけど、とてもいい学校だと思うよ。私は教師という立場だが、いつの時もここで学生生活を送る生徒を本当に羨ましく思っている」

 高校のいいとこだけでなく、悪いとこなども沢山説明してくれた。

 私がそばにいればどんな事があっても助けてあげられるぞ。


 慈愛の目をしたその人の、その一言で、双葉学園高校を受験することにした。


 どんなに強がっていても、きっと私は助けて欲しかったんだ。優しい言葉をかけて欲しかったんだ。慰めて欲しかったんだ。


 合格した事を伝えに行った時、おめでとうと言われ、その人の胸に抱きしめられながら、私は涙が止まらなかった。


 初めて彼を見たのは中学の卒業式を間近に控えた3月の中旬だったと思う。


 受験勉強の習慣で朝方に切り替えていたせいか、睡眠のサイクルはなかなか治ることがなく、まだ夜が明け切れていない早朝に目覚めてしまう。


 部屋着から寒くないだけの格好に着替え、愛犬のチョコを連れて公園に足を運んだ。


 進む方向の空は、夜の闇が少しずつ押し出されようとしていて、その境目から差し込む光が街を暖かなものに変えていこうとしている。


 勉強に疲れ、自室の窓からも見えていたその溶けて混ざり合ったような紫色の空が見える時間が私は大好きだった。


 日中暖かな日も多くなってきてはいるが、流石のこの時間はまだまだ寒く、ストールをマフラーの代わりに巻いてきて正解だったと思った。

 

「可愛さよりも防寒重視ですから」

 誰が聞いてるわけでもないのにそんなことを小さく呟いてみる。


 公園の最奥にある遊歩道脇に植えられている沢山の桜は、そのほとんどが、ピンク色に大きく膨れていて、これが満開と呼ばれなかったとしたら、桜もかわいそうだよねってチョコに話しかけるが勿論答えてくれるわけがない。


 遊歩道の内側には本格的な陸上トラックがあり、ここで大会のようなものが開かれているのを何度も見ている。


 見上げる桜と空のコントラストに目を奪われ、冷たい空気を吸い込んで、本当は寒いと感じているはずなのだが私の体はそれに気付いていない。


 二回、もしかしたら三回はすれ違っていたか。

 一周400mの陸上トラックを軽快なリズムで走っている男の人がいる。


 癖っ毛なのかパーマーをかけているのかは分からないが、クシャッとした髪をヘアバンドで上にあげ、少しだけ長いその髪は走るスピードもあってか後ろに風で流されていた。


 私も運動は得意な方だが、この人のようなスピードでは流石に走れない。


 それよりも…


 もくもくと走っているだけの彼は、この間の私のようになんだか泣いているように見える。


 止まることも速度が落ちることもなく、すれ違うこと六回目。

 巻き取り式のリードが一番最後まで出ていたせいで、綺麗な姿勢で走っている男の人にチョコが駆け寄っていってしまった。


 足にじゃれつく私の愛犬に、嫌そうな素振りも見せず、ゆっくりと速度を落とし、耳に着けていたイヤホンを外しながら、足が完全に止まった時にはいい子だねって言いながら撫でてくれている。


 謝りながら急いで近づくと


「シュナウザーですか?」

 私のことなど一切見ることもなく聞いてきた。


「はい。チョコって言うんです」

 言う必要がない情報なのは分かっていた。

 何でだろう。もっと声を聞いてみたいと思ったのだろうか。

 それとも私のことだって見てよとでも思ったのだろうか。


 走ってるいる姿を見ていた時は、大学生?って思っていたのだが、目の前にいる彼は同い年か年下のようにも見える。


 名残惜しそうにチョコだけを見ながら立ち上がると


「じゃあね。チョコ」

 耳にイヤホンを再び差し込み、軽く一礼したあと、背中を向け公園の出口へと走って行った。

 結局私と目が合うどころか、こちらを一度たりとも見てくれる事はなかった。


 卒業式を終え春休みになり、チョコを伴ってその公園へと何度も足を向けた。


 あの時と同じような時間。


 あの時より少し早い時間や遅い時間。


 防寒重視ではなく、いつも可愛い格好で出かけた。

 けれど、タイミングが悪いのか、春休み中その人と私が会うことは一度もなかった。


 明日から新しい生活が始まる。

 期待と不安も同じくらい沢山あるけど、楽しみにもしている。

 何よりそばで助けてくれる人がいるのは本当に心強い。


 夕方、チョコの散歩から帰宅した妹の佳奈美は、嬉しそうに鼻歌を歌いながらチョコの足を拭いてあげていた。


「随分とご機嫌ね」


 チョコの頭を撫でながら佳奈美の顔を見ると、ニッと笑い写真を見せてくれた。

 チョコが嬉しそうにボールを拾っている写真。

 チョコと一緒に並走している写真。

 チョコの頭を撫でている写真。

 携帯電話で写真を撮っているの分かるが、チョコの頭を撫でている構図が変だった。


 次の写真へとスライドするとあの人がチョコを撫でている。

 驚きのあまり、妹の携帯電話を落としそうになる。


 佳奈美の顔を見ると


「突然チョコが走ってる人にまとわりついて、うわーやばいって思ったんだけど、その人、チョコ久しぶりだねーってモフモフしてくれたの」


「うちのチョコ知ってるんですか?」


「君のお母さんなのかな?朝早くに散歩してる時に触らせてもらったんだ」


 「なんかね爽やかですごくカッコ良かったの。たっちゃんって言うんだって」


「お母さんじゃないし…」

 え?って振り向いた佳奈美のことを無視して自室に戻る。

 いくら適当な格好だったからってお母さんはないと思う。

 これから高校生になろうって言う女子にそれは酷いセリフじゃない?

 顔も半分以上隠れてたから私の可愛さに気づがなかっただけだ。私結構モテるんだから。小学生の妹とは楽しげに話したくせに。私の事なんて顔も見てくれなかった。いくらあんな格好してたからって酷い話だ。


 一生懸命自分を肯定しながら、何故だか憤慨している自分に気付いて一人笑ってしまった。

 友達でも恋人でもない、ましてや知り合いとさえも呼べない人に何故怒りの感情が出たのであろう。

 塾の人たちにあんな事をされても怒れなかったのに。


 ベットに横になり、白い天井を見上げながら、あの時見たあの人の流れていない涙を、私がしてもらったように拭ってあげたいと思っていたからなんだと一人納得して目を閉じた。


それはお節介なのかもしれない。

それは私の我儘なのかもしれない。


けど…


助けてあげたいと思ってしまったのだ。


だから。


もう一度あの人に会ってみたかった…


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