第65話「地獄」

 やっと爆笑が治まり、静けさを取り戻した宿屋号の甲板。

 ようやく会談が再開した。

 確か、互いの商人が挨拶を交わしたところで、暗殺と演武が始まってしまったのだった。


 改めて——

 帝国側の商人はトトル。

 連邦側に異議なし。


 対する連邦側の商人は、明らかにネイギアス人ではなかった。

 名はワッハーブ。

 年齢は探検隊と同じ位。

 肌は褐色で黒い口髭を生やし、顔つきが大陸周辺の者ではない。

 どうやら遥か西方の人のようだ。


 トライシオスは彼に「ロミンガン王家とも取引がある真っ当な商人だ」と折り紙をつけるが、却って不信感が増すから不思議だ。


 しかし探検隊はその西方人を信じることにした。

 彼も〈巻貝〉の持ち主だった。

 執政の折り紙など信じるに値しないが、女将は信じられる。


 とはいえ、それだけで信じたわけではない。

 探検隊が信じることにした最大の理由は……


 彼もリーベル派の被害者だったからだ。



 ***



 西方の商人ワッハーブは探検隊と似ていた。

 彼も海辺の小さな街に生まれ、家族四人で平和に暮らしていたという。


 ある日、その平和をリーベル派が壊しにやってきた。

 街を破壊し、大人を殺し、若者と子供を攫う。

 両親はそのとき殺され、彼と妹は攫われた。


 それから長い船旅が始まった。

 窓一つない船倉に閉じ込められて、何週間も波に揺られ……

 辿り着いたのは見知らぬ砂浜だった。


 そこから馬車に詰め込まれて内陸へ。

 深い森をしばらく進むと急に開けた場所に出て、沢山の魔法使いたちが待ち構えていた。


 後でわかったことだが、見知らぬ砂浜はイスルード島西岸で、沢山の魔法使いたちというのは研究所の魔法使いだ。

 つまり兄妹が連行された場所こそ、模神作りの作業場だった。


 ……そこで話が止まってしまった。

 ワッハーブは両手で目を押さえ、肩を震わせている。


 まだ模神のことを知らないレッシバルたち四人には、彼の涙の理由がわからないだろう。

 だがそれ以外の者たちは「リーベル派」と聞いただけで想像できる。

 その後、幼い兄妹を襲う地獄を。


 少し落ち着きを取り戻した彼は話を続けた。


 作業場に到着すると、数人ずつに分けて牢に入れられた。

 兄妹は一緒の牢になった。


 妹はまだ幼く、ただ怖がるだけだったが、彼は少年だったので自分たちが置かれている境遇を理解していた。

 奴隷としてどこかに売り飛ばされるか、ここで何らかの作業をさせられるのだ、と。


 彼は地獄の日々を覚悟した。

 同時に、妹を守らねばと固く決意もした。


 立派な覚悟だ。

 そして賢い少年だった。

 常識的な奴隷の使い道は彼が想像した通りだ。


 だが、この世には彼の想像を遥かに超える地獄が存在するのだ。


 ある日、兄妹が牢から出された。

 妹は怯え、小さな手が兄の服の裾を掴んだまま離れない。

 彼はそんな妹を気遣いながら、魔法使いたちの指示通りに歩くしかなかった。


 連行された先は、魔法陣やよくわからない器具が沢山ある実験室のような大部屋だった。

 到着すると魔法使いたちは兄妹を引き離そうとした。


 抵抗しても無駄だ。

 わかっている。

 だからここまで大人しく従ってきたのだが、妹だけはダメだ。

 彼はつい抵抗してしまった。


 しかし多数の大人たち対少年一人。

 勝ち目はない。

 彼は袋叩きにされ、妹を取り上げられた。


 兄から引き離され、一人にされた彼女に抗う術はない。

 大きな魔法陣の中央に立たされ、そして——


「う、うぅ……」


 また話が止まってしまった。

 頭を抱えて震えている。


「お、おい、大丈夫か?」

「少し休んだ方がいいんじゃないのか?」


 詳しい事情がわからないレッシバルたちには心配することしかできない。

 トライシオスもさすがに見兼ねたのか「私が続きを話そうか?」と申し出た。


 しかし、


「大丈夫……大丈夫……」


 と繰り返しながら復活した。


 人任せにしたくない。

 自分の言葉で伝えたい。

 彼らに——

〈海の魔法使い〉を倒した勇者に伝えたい思いがある。


 ずっと自分を偽ってきた。

 家族のことを考えないようにして生きてきた。

 誰もリーベルには敵わない。

 どんなに憎くても。


 ところが先日、トライシオス殿下が教えてくれた。

〈海の魔法〉を倒せる勇者が現れた、と。


 聞いた瞬間、全身に電撃が走った。

 封じていた思いが込み上げてきて、涙が出た。

 だが、話には続きがあった。


 勇者たちはリーベルの海上封鎖を受けている。

 このままでは悪魔共と戦う前に干乾びてしまうだろう……


 そこで、だ。


 殿下から密貿易のことを打ち明けられた。

 リーベル派の航路を横切るので、危険な交易であるとも。


 ……だから何だというのだ。

 彼は二つ返事で引き受けた。


 勇者たちを干乾びさせはしない。

 必要な物は何でも用意しよう。

 その品が世界の果てにしかないというなら、喜んで世界の果てへ行ってこよう。


 勇者たちが万全の状態でリーベルと戦えるように支援する。

 それが交易商人としての仇討ちだ。


 彼は気持ちを落ち着かせ、息を整えた。

 リーベルと戦う彼らに伝えなければ。

 奴ら、悪魔共の所業を。


「妹は……目の前で溶けて、模神に吸われた!」


 妹を魔法陣の中央に立たせると、魔法使いたちは陣の縁で詠唱を始めた。

 彼女は恐ろしくて兄の名を呼び続けるが、倒れ伏したワッハーブ少年はただ目を合わせてやることしかできなかった。


 惨い……

 少年の目は一部始終を見た。

 彼が見ている前で、妹は溶けて真っ白な光の塊になり、魔法陣後方に設置してある大きな水晶の容器へ吸い込まれていった。


 彼女は神聖魔法〈浄化〉によって〈純粋な魂〉になったのだ。

 彼女は女でも男でもなく、子供でも老人でもなく、生者でも死者でもなくなった。


 後でその容器の中身こそが模神なのだと知ったが、このときはまだ知らない。

 それでも〈水位〉が僅かに増したのを見て少年は悟った。

 妹は死ぬよりひどいことになったのだ、と。


 次は彼の番だ。

 しかしそこから先の記憶がなく、気が付くとウェンドア旧市街の地下道で蹲っていた。

 悪魔共が逃がしてくれるはずはないので、一瞬の隙を突いて脱走したのだろう。


 夜になってから地下道を出て、港に停泊していた商船に紛れ込んでリーベルを離れた。

 彼がその商船を選んだのは旗に見覚えがあったからだが、この選択が後にトライシオスとの出会いに繋がっていく。

 偶然にも、商船はロミンガン王家御用商人の船だった。


 ネイギアス商人の活動範囲は広い。

 連邦の旗を掲げて東の果てへ、西の果てへと海を渡る。

 彼が故郷で見たネイギアス旗もその一つだったのだろう。


 知っている旗を見つけたから、つい……


 気の毒だが、こんな言い分がまかり通るなら法など要らない。

 子供であろうと密航者は密航者だ。

 縛り上げて役人に引き渡すか、面倒なら海へ突き落とすということも……


 だが、船長は人情に厚い人物だった。

 引き渡しも突き落としもせず、事情を聞いてくれた。


 ワッハーブは攫われてから今日までのことを話そうとしたが、惨劇のショックが残っていたのと、疲労と空腹で朦朧としていたためにうまく喋れなかった。


 要領を得なかったが、船長は海賊に攫われて奴隷にされた子供が脱走してきたのだろうと解釈した。


 持ち主に返せばひどい目に遭うだろうし、探すのも面倒だ。

 第一、奴隷を買うような奴はろくな人間じゃない。

 どうして見ず知らずのろくでなしのところへ届けに行かなければならんのだ?

 管理が杜撰だから逃げられたのだ。


 船長は彼を船員として雇ってくれた。

 おかげで生き延びることができ、やがてロミンガンの若様と出会うことにもなるのだった。


 月日は流れ、彼は祖国で交易商人になった。

 昔のことはもう忘れた、と自分に嘘を吐きながら。



 ***



 語り終えたワッハーブは、テーブルに額と両手をついて探検隊に懇願した。

 特に、レッシバルに。


「妹を助けてください!」

「…………」


 探検隊もリンネ母子を埋葬してきたところだ。

 気持ちはわかるし、できるものなら何とかしてやりたい。

 でも……


 探検隊の五人は互いに顔を見合せ、最終的にラーダへ集中した。

 探検隊唯一の魔法使いに。

 だが、彼も首を横に振る。


 研究所の魔法使いはエリートの中のエリートだ。

 一介の元陸軍魔法兵に、彼らの術式をどうにかできるはずがない。


 こういうときはいつもシグが代表するのだが、ワッハーブはレッシバルに向かって懇願している。

 御指名通り、レッシバルが探検隊を代表して答えるしかない。

 俺たちには無理だ、と。


 魔法の難しい理屈はわからないが、元通りにするのが不可能だということは素人でもわかる。

 残酷だが、妹さんはその時点でもう……


「わかっている! 私もそう思う。だから——」


 彼も魔法のことはよくわからない。

 でも一目見ただけで理解できたのだ。

 あれは、人間から意思や姿形を消し去り、命とか魂といった根源的なものを取り出すための術式だったのだと思う。

 おそらく容器に溜まっていた光は大勢の人たちの……


 もう混ざって一つになってしまったものから、妹だけを抽出することはできないだろう。

 だから頼みたいのは妹の救出ではない。


 彼は急に席を立ち、帝国側へ回り込んだ。

 不意を突かれたトライシオスは目で追うことしかできない。

 予定外の動きだった。


 女将もだ。

 レッシバルのことは引き続き警戒していたが、その他の者については注意を払っていなかった。


 ワッハーブは駆け寄り、レッシバルの足元に平伏した。


 さっきの暗殺未遂は驚いた。

 でも、ネイギアスの執政が相手でもこのレッシバルという竜騎士は恐れず実行した。


 何という勇気!

 この人なら無敵艦隊に勝てる。

 きっと妹を〈か……う〉してくれる。


 彼女はいまも大勢の人たちと一緒に、生きることも死ぬこともできずにいる。

 だから……


 勇者よ、お願いだ。

 どうか、


「妹を解放してください! お願いします! お願いします! お願いします——」


 模神の一部にされてしまった妹さんを〈解放〉するということは、つまり……


 誰も言葉を発しない。

 発することができない。

 宿屋号の甲板に、家族を奪われた西方人の懇願だけが木霊していた。


 勇者レッシバルも沈黙したままだ。

 しかし、他の者たちのように絶句しているわけではない。

 ワッハーブから懇願されながら、先日のアレータ海での戦いを思い出していた。


 もしフォルバレントがピスカータを発つのが少し遅れていたら、アレータ海でリーベル派と遭遇することはなかっただろう。

 そうしたらきっと、リンネもお腹の子も彼の妹のように……


 平伏していたワッハーブはレッシバルの爪先に縋りついている。

 知らない者は、彼を無様だと嗤うかもしれない。

 だが、


 ——この人は……俺だ。


 あの日、山へ縄張り作戦に出動していなかったら、自分たちもリンネや妹さんのように攫われていたはずだ。

 嗤えない。


 段々、レッシバルにもわかってきた。

 ずっとネイギアス海賊を仇と恨み、その元締めたるネイギアス連邦を仇の親玉と見定めてきた。

 だが、どうやら違ったらしい。


 縋りつかれている爪先を見ると、自然と西方人の後頭部が目に入る。

 顔は見えないが、後頭部越しでもどんな表情で懇願しているか浮かんでくる。

 ものすごい気迫と執念だ。


 ——この人は断じて、怨敵に媚びを売ってまで金儲けに走るような屑ではない。


 レッシバルはワッハーブの両肩を抱えて頭を上げさせた。

 彼の気持ちは十分すぎるほどよくわかった。

 ……これ以上は辛すぎる。


〈老人たち〉は信じられないが、同じ痛みを持つ者は信じられる。

 彼がトライシオスと親しくしているということは、襲撃も人攫いも連邦政府の指示ではなかったということだ。


 一口にネイギアス海賊といっても様々おり、中には都市と契約しておきながら影で他国と通じる一家も……

『リーベル』派というくらいだから、そいつらはリーベル王国と通じている一家なのだろう。


 村の皆やリンネの仇を討つため、ワッハーブの妹さんを解放するため、まずは敵情を知らなければ。


「どういうことなのか、詳しく教えてくれないか? 特に、その〈リーベル派〉と〈模神〉のことを」


 もちろんだ。

 そのために、トライシオスは渋るシグに頼んで連れてきてもらったのだから。

 海の竜騎士、レッシバルを。

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