正義の軍

「ファーティマ、少し出かけてくるよ。息子は適当に遊ばせといてくれ」

 ムハンマド・バーキルは妻にそう言い残して家を出た。そのまま彼が足を運んだ先は、郊外にある廃工場だった。かつてはイラク軍の兵器工場だったそこは、旧フセイン政権の後を追うように廃工され、現在はその骨組みとわずかな屋根壁を残すのみだった。

 本来であれば誰も寄り付かないような廃工場は、しかし、バーキルが到着したころには多くの若者が居並んでいた。皆、顔をスカーフで隠し、服の袖口には神への信仰告白を表すアラビア語の章句を縫い付けていた。

 廃工場の中心で若者たちに指示を出していた人物は、メンバーが全員揃ったことを見ると、整列を命じた。

「今日こそ決行の日。誰も欠けることなくここにいることを嬉しく思う。これから三時間後、首都バグダードにアメリカ政府の高官が来訪する。我らはその到着を待って、空港に強襲をかける。これに成功すれば、アメリカ国内では反戦世論が高まり、奴らをこのイラクから放逐することが叶うだろう。神が我らに与えたもうた土地に異教徒をこれ以上のさばらしておくことは出来ぬ。────我々に神のご加護があらんことを」

 リーダーがそう言葉を結ぶと、メンバーらは一斉に神を讃える章句を唱えた。

 ジェイシュ・アル・アドル。アラビア語で「正義の軍」の意味を持つ組織にバーキルが入隊してすでに三年になる。アメリカ軍に父を殺された恨みをようやく晴らすことができる。メンバーを肩を組み、全能感に包まれながら、バーキルはこの作戦の成功を確信した。

 その数時間後、バーキルらの姿はバグダード空港から北に1キロの地点にあった。背の高い草の生い茂る平原に身を隠し、その時を待つ。雲一つない晴天の和やかさを破り、無骨なヘリの音が近づいてきた。間違いない。アメリカ軍の専用ヘリだった。

 バーキルは背嚢から迫撃砲を取り出すと、慎重に肩に担ぎ、ヘリの着陸地点に照準を合わせた。乾いた風が吹き、陽炎をいくばくか和らげる。そして、リーダーの合図とともに、迫撃砲のトリガーを引いた。

 途端、肩に鈍い衝撃が走り、白煙が空港目掛けて飛んでいった。それは惜しくも空港の手前に着弾した。

「失敗だ! 逃げろ!」

 リーダーの合図を待たずにメンバーは各々撤退を開始していた。アメリカ軍の動きは速い。周囲に配備されていた戦闘ヘリ数機が、たちまちこちらに向けて飛んでくる。迫撃砲を捨て、ライフル銃を捨て、神への信仰告白の刻まれた戦闘服まで捨て去り、バーキルは命からがら、自宅へと逃げ戻った。

「どうしたの? そんなに血相を変えて」飛び込むように自宅に戻ると、妻のファーティマが驚いたように声をかけてきた。妻から差し出された水を喉に流し込むと、肺腑を空っぽにするような大きなため息が漏れた。バーキルは、ようやく生きて戻れたことを実感した。そうして頭を巡らせる。

(ジェイシュ・アル・アドルのメンバーはお互いの名前を知らない。仲間が何人やられたかは知らんが、少なくとも俺に捜査の手が伸びることはないだろう)

 自分の身の安全を確認すると、バーキルの顔に笑みが浮かんだ。今回は失敗したが、父の仇を取る機会はまだあるだろう、と。

「────そういえばウマルはどうした? 息子はどこで遊んでいる?」

 ソファーに深く腰を静めながら、バーキルは問うた。

「そういえば遅いわね。友達と一緒にバグダード空港までヘリを見に行くって言ってたけど」

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