己亥の歳

 西の方、玉門関より中華を発した。目に写る漠々たる光景に人の営みの面影はない。踏みしめるは礫砂。砂塵よりも大ぶりなそれは、風に激しく舞って肌を裂く。

「まあ、一月の後には着くだろうて。ゆっくり行こう」

 肩の力が抜けるような声で勅使は呟いた。この礫漠の先には目指す男がいるはずだった。

「勅命です。速やかに伝達すべきです」

 横を歩くはそれを補佐する吏僚。近くの郷里から推挙されたばかりの、紅顔残る若者だった。その目は皇帝の命を奉ずる使命感に燃えていた。

「陛下もこの命を大事とは思っておられんさ。いや、それどころか命が届くかどうかも関心ないかもしれぬ」

「不敬ですぞ。我らは陛下の手足となるべき。手足に口も頭もいりませぬ」

 だが、その言葉が勅使の言葉を動かすことはなかった。勅使は、蛮地人の排泄音を聞いたかのように顔をしかめた。

 一行はゆるゆると進む。若者は勅使に従い、はやる心を抑えようとしたが、やがて目的地に着く段になってついに爆発した。すでに玉門関を出て、焉耆、亀茲、于闐まで過ぎようとしていた。

「勅使! やはり看過できませぬ! 陛下の命であれば直ちに動くが臣下の道。自ら進んで命を遅らすなど、不敬であるばかりか不忠でしょうぞ!」

 怒声を叩きつけられてもなお、勅使は前を向いてゆっくりと歩き続けた。表情は虚だ。さらに若者が口を開こうとした時、その顔がゆっくりとこちらを向いた。

「勅命の中身は知っておるか?」

 若者はカッとなった。愚弄されていると感じたのだ。

「もちろんです! この先に砦を設け、少数の精鋭でもって北虜たる匈奴に立ち向かっている将軍に対する勅令です。陛下は将軍のご健康を心配され、ご厚情をもって中原への一時帰還を命ぜられたのです」

「ふぅむ。あれが……か?」

 勅使はすうと指を指した。礫砂だった足元は、中華を離れるにつれ、いつの間にか細かい砂漠となっていた。その砂漠の先にぽつねんと立つ建物。それは、砦というよりは朽ちた草庵のようであった。そこには一人のみすぼらしい老人が座っていた。くたびれているようで、目だけは異様な輝きを放っていた。周りには夥しい数の白骨が転がっている。死の上に座っているような光景だった。

「あれがその将軍だ。身の丈に合わぬ軍功を立てようと、賄賂でもって将軍に任じられ、無辜の兵士を引き連れてここまで遠征に来た」

「…………」

「だが、所詮は金で買った身分。無為無策は極まり、多くの兵を無駄死にさせた。だが、それでも栄達の夢は捨てなかった。金で宦官を釣って援軍を送らせ、さらにそれすらも全滅させた。ようやく自らの無能を自覚したのか、今度は中原へ帰還する勅命を欲した。一将功ならずして、万骨も枯ると言うわけだ。………私の兄も、それで死んだ」

 勅使はすらりと剣を抜き放つと、無造作に将軍に歩み寄った。若者が息を呑む音が聞こえる。将軍は目だけを億劫そうに動かした。が、剣が振り下ろされると、その動きさえも止んだ。砂漠に男二人だけが残された。

「中原へ帰ろう。残念ながら勅命は待ち合わなかった。将軍は将兵を裏切り、匈奴へ寝返ったとする」

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