だって霧が濃いから

 例えば南米の高地にずっと雲がかかっているように、僕の街から霧が晴れたことは一度もない。別に格別低地なわけじゃないし、水捌けの悪い土地というわけでもない。なのに、ずっと霧がかかっている。不思議不思議とよその人は言うけど、ずっと住んでいれば慣れるものだ。

 もちろん霧が薄れる日もある。

 そういう日は通勤も通学も非常に楽だが、片手で数えられるという表現が妥当なほどに数が少ない。

「今日の霧の様子はどうなの?」

 いつものように母が問いかけてくる。毎朝お決まりのルーティンは、朝食を作りながら行われる。この匂いは、ベーコン入りの目玉焼きか。

「今日は酷いよ。手を伸ばしたら、肘から先が見えない」

「じゃあ今日は休校になるでしょうね。あなた、お仕事は?」

「もうじき休みの連絡が来るだろうさ」

「大変ねえ………」

「年度末の決算時期なんだがなぁ」

 父のため息混じりの声が聞こえた。

 この街の住民は皆総じて肌が白い。満足に太陽が差さないから当たり前の話だ。父も母も十代と言っても通用しそうな気さえする。身体も心も、生まれたばかりのままを保っているのだ。この街の天候に不平不満を言いつつも、引っ越すことはしない。この街で生まれ育ち、ここから離れることを極端に怖がる。その一生は霧に左右されながら始まり、やがて終わる。霧に守られた人生とも言えるだろう。僕は、そんな生き方は嫌だ。

 ───ジリリリリ

 ポケット中で携帯がけたたましい音を立てる。電話に出ると担任からの休校連絡だった。霧が電話線にまで入り込んでいるように、その声はくぐもって聞き取りにくかった。

「………霧のせいで告白できないな」

 唇を突いて出たのは、そんな恨み言だった。昨日の放課後、以前から気になっていた女子にお願いしたのだ。明日、体育館裏に来て欲しいと。だけど、この霧のせいで休校になってしまった。

 正直、ほっとした。

 その翌日は霧の格別薄い日だった。一年であるかないか、それくらい太陽が差していた。そんな日の朝、登校した途端、その子から呼び出された。突然のことに心の準備ができていない。心臓がバクバクする。だけれど、そんなことはお構いなしというようにその子は口を開いた。突いて出たのは───

「アンタ、人を呼び出しといてなんで来なかったの?」

「…………え?」

「昨日の話よ、昨日の! アタシ、ずっと待ってたんだからね。話があるって言われてたから。もう一度聞くわ。なんで来なかったの?」

「…………いや、だって霧で休校になって…………」

「休校と約束は関係ないわ。霧がなによ。人を呼び出したんならスジ通しなさいよ。…………はあ。もういいわ。そうやってなんでも霧のせいにしときなさい」

 カアッと頬が熱くなった。霧に守られていたのは僕も同じだった。告白の結果から僕は逃げていたのだ。両親のことを誰が笑えると言うのだろうか。

 この場から立ち去りたい。逃げ去りたい。ああ霧よ、もっと濃くなってくれないだろうか。こんな情けない泣き顔を隠してくれるくらいに。

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