あったら良かった長坂坡

 月明りが肌を刺すような夜だった。日が沈んでもう数刻を過ぎたというのに、影はなお濃く大地を染めている。天を巡る星は月光に溶けて見えず、地には人倫が消えて惨劇が広がっていた。その中を単騎、張飛は仲間を待っていた。

 南下した魏軍に対して劉琮が早々に降伏したため、主上たる劉玄徳は領民を連れて新野城を後にした。だがその途中、急進した魏軍にあえなく追い付かれ、やむを得ず主上は妻子を見捨てた。だが、これを異とした趙子龍は主上の妻子を救わんと魏軍に躍りかかった。それからすでに半刻が過ぎていた。

 すでに味方はこの長坂橋を渡り、残るは趙子龍と張飛のみ。趙子龍さえこの橋を渡れば、張飛は殿軍として一兵たりとて敵軍を渡らせぬつもりであった。

 時が経つにつれて焦燥が高まる。すでに趙子龍は討ち死にしたのではないか。あの雲霞の如き魏軍に飲み込まれては、死んだと考えるのが当然だ。だが、長く共に戦った身として、張飛は、必ず趙子龍が生きて戻るという確信を持っていた。

 その時、長坂橋の向こうに敵兵の断末魔が近づいてきた。それとともに赤子の声も聞こえる。茂みを飛び出したのは、腕に阿斗を抱えた趙子龍その人であった。

「早く橋を渡れ!」

 無事を祝う暇もなく、張飛は指示を出す。趙子龍がその横を駆け抜けた時、彼が単騎であったことに初めて気が付いた。

「待て、子龍! 糜夫人はどうされた?」

「夫人は………重傷を負われ、足手まといになることを潔しとせず、自ら井戸に身を投げられた………」

 肺腑から絞り出すような声は、そのまま趙子龍の無念を表していた。

「………分かった。行け」

 言葉少なく別れを告げると、張飛は長坂橋に威を示した。すでに橋の対岸を覆いつくした敵軍は、こちらが単騎であることを見て取ると、嘲りの声を漏らした。

 だが、張飛は馬の脚を広げ、蛇矛を振りかざし、大音声を上げた。

「我こそは幽州涿郡の人にして、劉玄徳が義兄弟 張飛益徳なるぞ! 帝室に弓引く賊軍よ、命を惜しまぬ者からかかってこい!」

 その威風に一瞬ひるんだ魏軍であったが、気勢を上げると遂に橋を渡り始めた。その光景を前に、張飛の脳裏に軍師との会話が思い出された。

 ────益徳様。おそらく貴方は長坂橋において単騎で敵と接触するでしょう。その時にはこれをお使いなさい。敵軍を一網打尽にすることができます。え? これは何かって? それはですね────

 結局張飛は、その説明の大半を理解できなかった。覚えているのは、「私はレイワの時代からたいむすりっぷしてきたのです」という軍師の言葉だけだった。

 気が付くと目前に敵が迫っていた。張飛は臍下丹田に力を込めると、軍師から授かったそれを背後から取り出した。それは黒鉄色に輝く円筒形の物体であった。その端から伸びる突起を手に取り、張飛はためらうことなく引き絞った。

 張飛は知るまい。その円筒形の物体の名こそ、旧ソ連が誇る名銃アフガニスタン製コピー品 アブトマットカラシニコフ AK47であった。張飛の目の前で、瞬く間に敵兵が血煙となった。

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