エピソード38 愛が電気信号ではなく心の動きであるならば

「あれ、なにこれ」

 彼が私の下から早くも一週間が過ぎた。最初の頃は泣きながら必死になって探し回ったせいで、目が真っ赤に腫れたりもした。

 しばらくして、誰かに誘拐されたのでは、と考えるようになってからは全身に怒りが宿って、よく唇の端から血が滴っていた。

 そして今日、私の目の前の世界はまったく別の色のようなものになっていた。


 いや、どういう事なのかはまだ分からない。

 でも混乱しつつも考えとして浮かんだのは、もしかすると、消えたのは私の方だったのでは、というもの。

 突拍子もない仮説だけど、それほどまでに、心境としては全く別の場所のように思えた。

 いつもの通勤ルートも、きついオーデコロンの香りを振りまく上司も、晩ごはんの為に寄って帰るお弁当屋さんも、何もかもが違って見えた。


「そっか、彼が居なくなったから、生きる意味が無くなったんだ」

 一時は本当に死のうと思ったし、ある程度の決心もついていた。でも、いわゆる『目の前が真っ暗』だったらよかったのに、その世界の違いは、色彩感の違いであって、色の消失ではなかった。

 そのせいなのか、気づけばまた再び、それまでの日常を過ごしていた。意味もなく出勤する独身女の日々を。


 諦めればこの色は元に戻るのか、それとも慣れてくるのか。

 あるいは、もう一度彼を家から抜け出せないようににしておけば、よりドギマギとしたこの色も晴れやかなものに思えるのかな。


 色というものは光の反射だ。そしてその光というものは細かな粒子であるだけでなく、波として現れているらしい。

 音もそうだ。音も波として鼓膜に伝わる。それを私たちはリズムと呼ぶ。そのリズムによって、心境や脳は快・不快を見出す。

 とすれば、だ。もしかすると、この妙な色彩感のある世界もまた、私に何らかのリズム、意味を語りかけるものなのかもしれない。

 それはどこか、電波信号のようなものなのだろう。アブナイ人は『チャネリング』とも表現する。

 でも、忽然と愛しい人が消えたのには、やはり世界的な意味があったんだ。

 だからこそ、私は世界に試された。

 一時は文字通り血眼になって渇望し、またある時は悪魔に魅入られて絶望の淵に立たされた。

 でも、世界はそれを望んでいない。そうでなくては説明がつかない。

 モーセの十戒という原始的な道徳律も、すべからく『○○せよ』ではなく『○○してはいけない』という禁止だった。


「あるところにあるべきものがある。それが自然…………」

 でも待てよ、もし一瞬にして消えたとすれば、彼はどういう原理と目的によって世界に消されたんだろう。

「人物も『物』。でも『物』は具体的に存在している『モノ』のことだし」

 物理、なんて言葉はまさしくそういう意味合いを内包している。

 待って、なんだかわかりそうな気が。ええと。

「でも『対象』はどう…………?」

 対象は様々な象徴が比較・対立的に現れることで認識できる、はず。

 とすると、彼から反射した光の波が彼とその世界を私に認識させていたのだから、彼が透明化したのならば、彼を介さない光の見え方がして当然なのでは?


「つまり?つまり………この光が見えている間は、彼は見えないってこと?」

 少し混乱してるけど、たぶんそうに違いない。錯覚というものを人間は容易く引き起こしてしまう仕組みがあるのだから。


 観念や精神、心などの根底には物質があるっていう唯物論的な世界だったら、科学の公式みたく0か100しかないんだ。だから彼は突然、消えた。

 でもその反対に、唯心論?だったらどうなるだろ。


 ええと、心やその働きはあくまでも物質に還元されない独特な性質を持っていて、物質的存在がその存在を容認されるのは意識によるものである。

 したがって、意識が存在を決定づける!

「やっぱりそうだよね!」


 久しぶりに元気になったのは、私がもうその光波リズムに感覚を委ねるのではなく、ただ彼を求めて至上の要因である心に全てを投じたからだろう。

 彼もそうしたんだ。それに応えないと彼は永遠に独り。彼の意識がここにないのに、私の意識がここにしかないというのは、あまりにも残酷な、病的なサイエンティズムだ。

 もう彼はどこにもいかない。それは私だってそうだ。私も彼の元から離れたりはしない。


貴方を愛してます」

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