エピソード36 入定
目の前に座っている白髪交じりの男は、医者らしからぬ忠告を僕に言ってきた。
「もう、その人とは合わない方がいいかもしれんね」
しかしながら、ただこちらの気分で彼をやぶ医者と罵るには、あまりにも目が真剣で、どうにもばつが悪かった。
「それは少し失礼でしょう。ストーカーならまだしも、
「そうだろうとも。だが…………」
幾多の病巣と病原菌とに対峙してきた男には、経験則という医学書と第六感という優秀なる助手とが既に備わっており、もはや彼の言葉は処方箋の一種でもあった。
だが、まるで両親や友人と同じような決めつけを、まさか医者からも下されるとは思ってもみなかった。そのショックは自然と精神的均衡を保つ為に、あえて免疫を生成するのを目的として、一時的な怒りを医者へ向けさせていた。
いや、これも一つのショック療法というやつで、怒りという根源的な活動エネルギーを刺激しているのかもしれない。
医者とそりが合わずとも、医術は均等の結果を目標として確立されてきたのだ。
******
「じゃあ別れるの?」
鏡花ちゃんはサラサラな髪をより一層、この世ならざるものへと昇華させたいのか、熱心に櫛でといでいる。その様子はあたかも、彼氏が趣味のグッズを買うや否や悩んでおり、その相談とも言えない相談を聞いているよう。
つまり、彼女にはもう答えが分かっているのだ。
「まさか」
「ふふ」
だが彼女は殊の外、想いを直接、言葉で伝えられることが好きなようで、今でもよく好きかどうか聞かれる。
………きっとそれは、僕が彼女と出逢った日の事を憶えていないからなのだろうが。
どうしてなのか、こうも強く想っているのに、そのなれ初めは薄ぼんやりとしていて、まさかイブですらなく、その前に居たとされるリリスなのでは、とバカップルよろしく疑ってしまうほどだ。
そんな幸せな恋人生活なはずなのに、記憶の曖昧さだけでなく、近頃は具体的に不健康だったりする。
それは不良少年的な意味ではなく、実際に突如として病弱になってきたのだ。
顔色は悪く、頬はこけ、原因不明の咳がよく出るようになった。
しかし、例によって病名も原因は分からず、このご時世に、医者に面と向かって、彼女のせいでは?、と悪魔のように言う。なんともはや嘆かわしいね。
せめて、彼女と面談なり何なりを済ませて、悪質なメンヘラであるなどと判明してから言って欲しいものだが、やはり彼女に尋ねても、一度も会っていないらしいから、やはり腹が立つ。
「ねーねー」
「どうしたの?」
僕は彼女の方を向いたが、すぐさま咳が込み上げてきたので、顔を背ける。エチケットなのだが、彼女にしてみれば、かえって気を遣うようで、『手を抑えるくらいで大丈夫だから』とまたしても注意されてしまった。
いずれにせよ、ここには僕ら二人しかいない。
別れないとお前死ぬぞ、みたいな勢いで親に言われたものだから、家を飛び出してアパート暮らし。でもあいにくの体調なので、バイトは先日辞めてしまい、今は貯金と、鏡花ちゃんのポケットマネーで数日間、生き長らえている、といったところか。
やっぱり僕はどうあっても死ぬのだ。であるなら、こうも愛し合った恋人と肌を寄せ合って、ついに召される、という方が事実、僕が末代であったとしても、永遠に語られるのではなかろうか。
とはいうものの、彼女とキスするのも、残念ながら、少し遠慮したい、というのが本心だ。
心の中ではとても嬉しいのに、どうも疲れる。それもメンタルなら倦怠期だと言えるのだろうけど、ごくごく一般的な、エキセントリックなキスでもないのに、体力的に苦しくなるのだ。
「だから………ごめん」
「嫌い?」
「違うよ!でも」
「うん」
カワイイ女の子に、こうも若くして、あれほどまでに憂いた目をさせるのは、この現状で一番の罪悪なのだ。
「もし、死ぬって分かったら、キスしてくれる?」
「もちろん。その時には、老衰でも何でもなく、鏡花ちゃんとのキスで死ねるっている、歴史上、誰も体感したことのない死に至る愛なんだからさ」
「嬉しい。ホントだよ」
彼女はわずかに憂いではなく、慈しみのような目をみせ、ほんのわずかだが潤んでもいるらしかった。
その時は案外、突然来るものだ。
「お医者さんはやっぱり凄いね」
憂いから慈しみへ、そして最後には愛の快楽の先にある大いなる潤沢が。
瞳を覗いていた僕は、鏡花ちゃんの肌が人形のように蒼白となっていることに、少ししてからようやく気が付いたのだった。
不健康な僕の前では、本来、死人とも形容すべき彼女の蒼白加減も、今においては、何よりも代えがたい原色だった。
気づけば僕は目の前に伸ばされた細く真っ白な彼女の一指し指を赤ん坊のように無邪気に愛撫していた。
「ご、ごめ」
「やめないで」
そっと呟く彼女の瞳は、ついに怪しく光るのみで、どうにも言い表せなくなっていた。
「男女は肉体で交わり、本当に愛し合った二人は、最期は心で交わる」
いや違う、僕の目の焦点が合わなくなってきたのか……
「安寧の………ダレモイナイ、トオイソラニ」
彼女のキスを感じ取った時、かえって僕は目を開けてしまった。
そこに居るのは確かに鏡花ちゃんであり、また決して数分前の記憶と合致する姿ではなかった。
でも、未練は何もない。悪霊なのか、それとも僕の病が見せた幻想なのか。
およそいっさいが現実離れしていたけれど、少しくも愛は疑わなかったのだ。
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