第90話 体育祭(借り物競走)
心臓の鼓動が早い。
手首や首筋の脈打ちが強い。
口から心臓が飛び出しそうな程に緊張している。
大きく深呼吸してもそれらは解消せずに、むしろ悪化している様な気がする。
――今から実行しようとしている事を思えば、この緊張は仕方がない事だ。
「一色? もしかして緊張してる?」
借り物競走の出番待ち。
隣にいた白組の元クラスメイトである佐藤が聞いてくる。
「そう見える?」
「だってさっきから『すぅ』『はぁ』って深呼吸してるからさ」
「そうだな……。イメージトレーニング?」
答えると佐藤は笑いながらツッコミを入れてくる。
「アスリートか! たかだか体育祭で何をそんなに緊張してんだよ」
「あ、あはは……」
俺は気の利いた返しが出来ずに苦笑いで終わってしまう。
佐藤とは一年生の頃に何度も会話した事があるので、俺の態度に少し違和感があったのか、頭に?マークを出しながら喋り続ける。
「一色ってこういうの『だりぃ』とか言うタイプだと思ってたけど違うのな」
「ああ。本気……だな……」
「お、おおん。伝わるわ。その気持ち」
「伝わるかな!?」
彼の言葉にグイッといってしまい、若干引かれてしまう。
「あ、う、うん。まぁ……」
「そ、そっかそっか。うんうん。頑張ろう」
「――?」
またも佐藤は違和感を隠しきれずにいたが「はーい。次の人達ー」と先生が俺達をスタートラインに来る様に指示をしてくるので深く追求はしてこなかった。
「ま、お互い頑張ろうぜ」
佐藤に「おう」と違う意味で返事をしてスタートラインに立つ。
「位置について」
先生がピストルを空に掲げる。
「よーい――」
一つ一つの動作がスローモーションに見え、まるでアスリートがゾーンに入った様な錯覚を覚えるが、これは紛れもなく極度の緊張からだろう。
――パンッ!!
ピストルのトリガーが引かれて、乾いた音と共に走者一斉にスタート。
この学校の借り物競争は、トラックを半周した辺りにテーブルが設置されており、そこに走者分の封筒が置いてある。
その中に拝借するお題が書かれた紙が入っているので、それを持ってテープを潜ってゴールという一般的な借り物競争と言えよう。
俺のライバル達は、猛スピードで走る奴もいれば、軽く流す奴もいる。
猛スピードで走るのは野球部の堂島。
対して軽く流しているのは元クラスメイトの佐藤だ。
ありがたい事に両極端の選手がいるものだから悪目立ちする事なく、中盤を狙ってテーブルまでやって来る。
俺がテーブルに到着した時には既に三つの封筒が取られており、残り四つの封筒の中から適当に封筒を取る。
「――ふぅ……。――よしっ!」
気合いを入れて、俺は中身を開けずに知り合いのいない一年白組のテントの方へとやって来る。
白ハチマキ軍団の中に紅ハチマキが紛れていたら目立つだろうと思われるが、意外にも紅のハチマキを巻いた人達が多数いるのは事前に周知していた。
紅白なんて勝手に決められただけだ、そりゃ紅とか白とか関係なく仲の良い人同士が集まるだろう。
その為、俺が白組に紛れていても何の違和感も無かった。
それはこちらとしても好都合。
注目を集める事なく、俺の求める人を探せる訳だ。
「――確か……」
二年白組のテントの後ろの方と言っていたな。
わざわざ一年白組のテントから二年白組のテントの方へやって来ると――心臓が跳ねて一瞬意識が飛びそうになった。
視線の先に男子生徒と一緒にいるシオリの姿があったから。
男子生徒は腕を組んでグラウンド側を向いており、隣でシオリは俯いて何か喋っている様子だ。
何の会話をしているのかまでは聞こえてこないが、そんなのはお構いなしに彼女達の間に割って入る。
「シオリ」
彼女を呼ぶ声がコントロール出来ずに声が上澄く。
そんな俺の声にシオリと男子生徒が気が付くが、間髪入れずにシオリの左手をギュッと握る。
「借りるぞ」
「――え……。え……?」
シオリはいきなりの事に動揺している様子だが男子生徒は特に大きなリアクションを取る事なく俺達を見守る。
「後は頼むわ。一色くん」
俺が男子生徒にそう言うと黙って頷いてくれたので、彼の胸元に封筒を突きつけると逃げる様にダッシュする。
その後、男子生徒が何か言っている気がしたが、極限の緊張にシオリの柔らかい手の感触がプラスされて誰かに構っている余裕なんて無かった。
「――こ、コジロー!? ど、どこ行くの!? こっちグラウンドじゃないよ!?」
「良いんだよ!」
出来るだけ端っこを走りながら彼女の問いに答え、俺達はグラウンドではなく校舎の方へと入って行った。
もう走る必要性はないのだが、先程から余裕のよの字もなく、校舎に入ると階段を駆け上がり誰もいない二年六組の教室に入る。
「――はぁ……。はぁ……」
ここまで走って来たので息が上がる。
シオリも息が上がっているので申し訳なく思うが、今は謝る余裕なんて無かった。
「――コジロー?」
お互い息が整った所で、シオリが俺の名前を呼ぶ。
彼女からすれば借り物競争のはずなのに何で教室に来たのか疑問で一杯な事だろう。
しかし、呼びかけに反応せず、代わりに繋いでいる彼女の手を引き寄せギュッと抱きしめる。
「やっと……捕まえた」
「――ぁ……」
彼女を抱きしめてた時に盛れた吐息がかなり愛おしく、更に、先程まで極度にしていた緊張が解れた。
なので、ギュッと抱きしめる力を強めてしまう。
「これでもう……逃げられないな。俺も、シオリも」
「は、離して……」
「そう言う割に抵抗してないよな?」
「そ、それは……」
「どっちにしろ、もう離さないけどな。また逃げられても嫌だから」
「――ぅぅ……」
可愛い唸り声を上げるシオリの方を見ると顔が真っ赤である。
そんな事を言う俺の顔の方が赤い気もするが……。
「シオリ……。顔真っ赤だぞ?」
自分の事を棚に上げて、恥ずかしさから口に出してしまう。
「そ、そんな事……ないよ……。こ、コジローの方こそ、顔真っ赤……だよ?」
「俺は……その……今から伝える事を思うと顔が赤くなってる……」
一旦間を置いて、少し大きく息を吸い込み、彼女を見つめる。
「シオリ……。俺はシオリの事――」
端的に想いを伝えようとするとシオリが「ま、待って!」と制止をかけてくる。
いつもの俺なら絶対に踏みとどまり、彼女の言葉に耳を傾けていた事だろう。
だが、もう後戻り出来ない様にここまでしたんだ。
俺は圧倒的な覚悟をして今ここにいる。
なので、彼女を無視して微笑み返してやる。
「待たないし、俺は……もう逃げない」
「コジロー、まっ――」
何か言おうとしている彼女にキスをして言葉を止めてやる。
唇と唇だけのキス。
シオリは唇を離そうとはせず、口付けを交わしてくれている。それは彼女が嫌がっていない証拠。
彼女は俺のキスを受け入れてくれた。――俺を受け入れてくれた。
その事実が今まで生きてきた中で一番と言っても過言ではない位に嬉しい。
いつまでもこうしていたい、ずっとこのままでいたいと思ってしまう。
だが、いつまでもしている訳にもいかないので、時間を忘れた口付けを名残り惜しいがゆっくりと唇を離し、抱擁を解く。
お互い目が合うと気恥ずかしさで顔を背けてしまう。
「――ま、待ってって言ったのに……」
「嫌……だったか?」
そう言うとフルフルと弱々しく首を横に振る。
「嫌な訳ないじゃん……。大好きなコジローがキスしてくれたのに……」
彼女の口から『大好き』と言う言葉が出た時、心臓が跳ねた。
でも、これは先程の緊張とは違うどこか心地の良い鼓動である。
「――でも……私から……その……したかった……」
「え?」
どう言う意味? と、一瞬分からなくて声を上げるとシオリは真っ赤な顔で説明してくれる。
「だって……。私だけ……コジローの気持ち聞いちゃってたから……」
言われた瞬時に冬馬との件の事を言っている事にすぐ気が付く。
「いや……。正直、薄々俺の想いに気が付いてたろ?」
「そりゃ……。――だから、私だけコジローの想い知ってるってズルいなぁ……って思ったから、告白するなら私からしたかった。私からキスしたかった……かなって……」
シオリは「でも……」と少し悲しそうな声を出す。
「あの日、すぐに私も『大好き』って事伝えなきゃ……って思ってたんだけど……。実際、言葉にして聞いたら凄く戸惑っちゃって……。あの日からコジローの顔見ると気持ち良いドキドキだけじゃなくて、なんだか胸が苦しくて、痛くて、まともに見れなくて……どうしたら良いか分かんなくなってずっと逃げちゃってた……。逃げる度にコジローを……自分を傷付けてるって気が付いているのに……」
「シオリ……」
彼女が弱々しく語るので、俺は自分の想いを伝えた。
「確かにショックだったな……。ずっと避けられているみたいで」
「うっ……」
「でも……遠回りしちゃったけど、こうしてちゃんと『俺がシオリを好きだ』って想いがシオリに伝わった」
「うん……。ちゃんと伝わったよ。ちょっと強引だったけど……。男らしくて素敵な想いが」
シオリの言葉に自然と笑みが溢れて照れてしまう。
俺に釣られてシオリも照れ笑いを浮かべている。
幸せな空気が流れて、もう少しキスの後の余韻に浸っていたいが『続いての競技は――』とアナウンスが聞こえてきて現実に戻される。
借り物競走は上手い事してくれたみたいだな。後でお礼言わないと。
「――そろそろ戻ろうか。いつまでもいてると、いつ誰か来るか分からないし」
「そ、そうだね。行こう」
シオリは答えると教室を出ようと先に歩き出すので、その後に続く。
すると、彼女は立ち止まり「やっぱり……」と言ってクルリと回れ右して俺の方を向く。
そして、軽く背伸びして俺の唇を奪って来た。
いきなりの事に唖然としていると、シオリは「ふふっ」と笑って言ってくる。
「私からコジローにキスしたいからしちゃった。本当はファーストキス奪いたかったけど、セカンドキスで許してあげるよ」
天使が悪戯をする様な笑みで言われて、もう俺の脳内はシオリで埋め尽くされてしまっていた。
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