第50話 許嫁とバレンタインの夜

『――きて……』


 聞こえてくる天使の鐘の様に心地よい声。


『おきて……』


 これ程までに俺の脳内を癒す声はないと思われる甘く切ない声。


『コジロー。起きて』


 名前を呼ばれて起き上がり、俺は驚愕する。


 目の前には冷徹無双の天使様がいたから。

 その綺麗な顔は見慣れたもの。

 しかし、驚いたのはその格好だ。


『し、シオリ!? お、おまっ!?』


 シオリは裸にリボンを巻き付けており、俺の上に舞い降りてきた。


『どう?』

『ど、どうって……』

『似合う……かな?』


 恥じらいながら聞いてくるシオリはとても愛おしく感じてしまう。


『に、似合うよ。でも、何でそんな格好して――」

『今日バレンタインだよね?』

『そ、そうだな』

『ふふ。いつもお世話になってるコジローに感謝を込めて考えたんだ』


 そう言って顔を真っ赤にしながら言ってくる。


『チョコレートは私』


 そう言って俺に擦り寄ってくる。

 彼女の温かい体温が伝わって――こない……。

 いや、裸だから身体が冷えているのだろう。


『沢山食べて……』




「――いただきまーす! ――あれ?」


 気が付くと目の前からシオリは消えていた。


 訳が分からずキョロキョロと周りを見渡してもシオリの姿は無い。


 時間が経ち一つの答えが導かれる。


「――末期……」


 俺は手で顔を覆い頭を膝に打ち付ける。


 あんな夢見るとか、まじで末期。どんだけバレンタインに飢えているんだよ。しかも夢の内容が浅はか……。


 恥ずかし! 恥ずかし! 恥ずかし!


「――コジロー。うるさい」


 ふと、部屋のドアが開いて顔を覗かせたのはリボン姿――ではなく、犬のエプロン姿のシオリだった。


「シオリ……。帰ってたのか」

「うん。――もうすぐ晩御飯出来るから、冷めないうちに食べて」

「あ、うん。――って、もうそんな時間?」


 枕元に置いてあるスマホを見ると、もう夜の七時を回っていた。


「結構寝てたよ。――早くね」


 そう言ってシオリはリビングに戻った。


 いつも通りの会話が今日は非情である。




 今日はバレンタインだからチョコレートケーキ! ――そんなサプライズだったら空も飛べる程に喜んだ事だろう。


 そんな理想郷をぶっ壊す日常の献立。

 ぶりの照り焼きに豚汁とサラダ――バレンタインってなに? 美味しいの? 状態。


 それに、見た目がちゃんとしてるので多少は手を抜いた献立。


「いただきます」


 いつも作ってくれているので感謝の意を込め、いつも通りにいただきますをして食事をさせてもらう。


 メインのぶりの照り焼きを口に運ぶと、本人は手抜きと言うだろが、美味しい。

 やはり、人間は全力でやろうとすると失敗するもの。何事も八割位の力を出すのが丁度良いらしい。腹八分目って言葉もあるしな。


「――今日チョコ貰ったの?」

「え……?」


 いきなりの問いかけに俺は箸を落としそうになるが、何とか耐えて答える。


 シオリを見るといつもの無表情で、聞いてきたのにも関わらず興味なさそうな顔をしている。


「い、いや……ぜ、ろ……」


 男のプライド的に零と答える苦悩。


 しかし、この空気はシオリから貰える匂いだ!


 チョコレートが貰えるなら男のプライドなんてドブ川にぽぽいのポイだ。そんなもんクソの役にもたたん!

 プライドと引き換えにチョコレートが貰えるなら安いものよ。


「そう……」


 ズズズズゥー。


 シオリが豚汁をすするので、俺も何故か釣られてすする。


 口いっぱいに広がる豚汁の旨み。少し入れた七味が丁度良い刺激となり、体内を温かくしてくれる。


 いや、美味しいんだけど、今、俺が食べたいのはこれじゃない感。


 そして、シオリが豚汁を置いて――。


 ブリを食べる!


「――何?」

「あ、いやー……」


 頭を掻きながらシオリに、チョコ! チョコ! と念を送る。

 仮にも許嫁というポジションなんだ。伝われ! 俺の脳内よ!


「今日のブリは手を抜いたのに中々上手く出来たと思う。美味しい?」

「うん。美味しい」

「良かった」


 シオリは少し嬉しそうな顔をして食事に手を付ける。


「い、いやー。この後、デザートとか……あるのかなー?」


 俺の少し分かりやすい言い回しにシオリはノールックで答える。


「普段デザート食べないじゃん」

「ですよねー」


 その一言で会話は途切れ、二人の本日の食卓は幕を閉じた。




「今年もマジで零か……」


 ベッドに寝転ぶ。


 もうすぐ十四日が終わる。


 まさか、本当に零だなんて……。


 いや、おかしいだろ?


『許嫁』と『居候』の二つの属性を併せ持ち、義理チョコもなしとか……。そんな事ある? ないだろ? 現実は非情とかそんなレベルじゃねぇぞ? 


 あー……。もう良いか……。良いんだ……。俺は一生バレンタインチョコレートを貰う何て出来ないんだ。


 てかさ、今時のバレンタインは友チョコだよ、友チョコ。好きな男子にあげるとか、チョコレートと一緒に告白とか、お世話になった人にあげるとか、もう古い古い。今やバレンタインよりハロウィンに力入れてるから。そんな時代だから! この変化の時代、イベントも変化していくから!




 ――寝よう。バレンタインなんてくそくらえだ。













 今日、帰って来てから結構寝たので寝付けない。

 どうしよう。こりゃ明日、寝不足で学校に行かなきゃかな。

 いや、なんか、もう疲れたから良いや。サボろうかな……。


 そんな事を漠然と考えていると、キィっと小さく扉が開く音がして、ベッドの前に人の気配を感じた。


「――コジロー? 寝た?」


 真っ暗な部屋で放たれる疑問文に俺はドキッとしてしまう。


「あ……。いや……おき……てる」


 言いながら起き上がり、電気を付けようとするとシオリが「あ……」と声を漏らす。


「電気は点けないで……」


 小さく言ってくるシオリに「あ、う、うん……」と素直に従う。


 暗闇に目が慣れてきたので、シオリの様子が伺える。


 いつもの寝巻き姿の彼女は俺のベッドに腰掛けた。


 顔を軽く伏せ、何か手に持っているのか、ガサガサとビニールが擦れる音が聞こえて、暗闇の中、俺の目の前に何かを持ってくる。


「一つも貰ってない何て可哀想だからあげるよ」


 突然の事に若干パニックになっている俺は目の前に出された透明の包みを受け取る。

 はっきりとは見えないが、中には小粒のチョコレートが数個入っている様だ。


「こ、これって……」


 ゴクリと生唾と飲み込んで、貰った袋をじっと見る。


「あなたが欲しかった物だと思うけど」


 そう簡単に言いながら小さな溜息を吐き、やれやれ、と言わんばかりの声で言ってくる。


「あれほどのオーラを放っていたらあげざるを得ない」

「それは……何かごめん……」


 ――って事は義理チョコか……。


 あれほど必死になってたんだ……。伝わり方がスマートじゃなかったな。

 ――だが、それは過程に過ぎない。そんなものはどうだって良い。


「人生で初めてのバレンタインチョコレートだ……」


 そうだ。要は結果だ。結果良ければ全てよしなのだ。俺は人生で初めてのチョコレートを貰った。それこそが結果だ。過程やその他の事などどうでも良い。


 俺は高揚が抑えられず、ついつい言葉に出してしまった。


 自然と出てしまった俺の恥ずかしい台詞に「はじ……めて……?」と予想外と言わんばかりの声をあげる。


「ま、まぁな……。シオリが初めてチョコレートをくれた女の子だよ」

「そ、そっか……」


 シオリは太ももの間に手を置いて、軽く身体を揺らしている。


「――食べても良い?」

「う、うん。それはもうコジローのだから好きにすると良いよ」

「じゃあ――いただきます」


 もう歯ブラシをしたとか、寝る前にチョコレートなんて――というくだらない理由など考える訳もない。

 

 俺は包みから一口サイズのチョコレートを取り出して――食べる。


「お、美味しい……」


 正直、味なんて嬉しすぎて分からない。

 ただ、決めていた事がある。

 もし、バレンタインチョコレートを貰ったのなら、本人の前で美味しいと言う事。

 これが叶った瞬間であった。


「ありがとう。シオリ」

「ど、どうも……」


 お礼を言うとシオリは立ち上がった。


「――から――」


 彼女は立ち上がると小さく何かを言ったみたいだが、それが聞き取れずに「え?」と聞き直すと、こちらを振り返って言ってくる。


「私もコジローが初めてだから――バレンタインチョコレート渡すの」


 そんなバレンタインチョコレートよりも甘い言葉を放つと「お、おやすみ!」とかなり焦った声を出して、部屋を出て行こうとする。

 しかし、相当焦っていたのかドアが開ききる前に出て行こうとして、身体をぶつけて「いてっ」と、可愛い悲鳴を残してリビングへ戻って行った。


 それがいつもクールぶってる彼女だからこそ妙に可愛かった。


「シオリも初めて渡した――俺も初めて貰った――」


 瞬間的に顔が熱を帯びるのを感じて心臓の鼓動がハイになる。


 何だか動悸がして苦しいが、この苦しみは嫌じゃない。むしろ何故か心地よい。


 これが――バレンタインデー。――最高じゃねぇか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る