第48話 ブダペストの混迷

 翌朝、ロンドン軍の敗北がブダペストに伝えられた。

 正確には、野豚の大群が煉獄盆地を通過した、という情報が伝わってきた。豚の群れによってロンドン軍との連絡は途絶され、その戦いの様相を北の人々が知ることはできなかった。

 ロンドン軍は全滅した、という憶測が真実らしく語られた。

 女王はロンドンの勇敢な戦いと死を信じ、部屋に引きこもって泣いた。

 一方、軍務大臣は野豚迎撃軍の増強に着手した。彼はまず、早豚を出して、ブダペストから百キロメートル以内に駐屯している六つの師団に召集をかけた。そのうち四師団が大小の反乱勢力と対峙していたが、大臣は反乱に関しては何ら罪は問わないこと、指つめ法の犠牲者には一人につき百万円の補償金を支払うこと、の二つの条件で即刻和睦せよと命令した。

「話がまとまらなければ逃げ帰ってこい」と彼は言った。

 次に、すでに引退した予備役の招集にかかった。来たるべき野豚との会戦は恐るべき消耗戦になる、と軍務大臣は考えていた。駆け引きや作戦といったものはなく、正面から野豚を迎え撃ち、斬って斬って斬りまくるのみだ。そのためには、一人でも多くの兵がほしい。

 ブダペスト市民の徴兵にも急ぎ着手すべきだったが、それは困難な情勢にあった。女王の言うとおり、ブダペスト中の戦える人間を招集するぐらいの荒療治をしないと野豚には到底かなわないだろう。しかし、ブダペストはこのとき混乱の渦中にあった。

 野豚の大群が首都に押し寄せるという情報はすでに市民に知れ渡っており、ブダペストからの住民の大量脱出が始まっていた。野豚の群れの規模は空前のもので、ブダノーサを壊滅させた。その桁はずれの破壊力はブダペストをも蹂躙するだろうという識者の観測が、市民の恐怖心をあおりたてていた。

 ブダペストの壊滅が既定の事実のように語られ、家財をまとめてあてもなく故郷を捨てる人々が南以外の街道を埋めていた。先王が死に、新女王が善政を敷くという期待も、市民をとどまらせる力にはならなかった。豚王国は滅びる、という声すら出ていた。

 とりあえず、軍務大臣は徴兵の布告を出した。

「二十歳以上、五十歳以下の健康な男女はこれを徴兵する。豚王城に出頭せよ」という立て札を市内各地に立てた。

 これでは前豚王と変わらない、と大臣は内心でため息をついた。

 午後になって、女王が彼の執務室にひょっこり顔を出した。泣きはらして目が充血していたが、彼女はけなげに笑顔を浮かべていた。

「どう、兵は集まりそう?」と彼女は努めて明るい声を出した。

「むずかしいですね。住民がどんどんブタペストから脱出し始めています。まだ八割方は残っていますが、彼らも今後どうするかわかりません」

 軍務大臣の声は暗く、表情は冴えなかった。状況がきびしすぎて、彼は女王を気づかう余裕を失っていた。

「去る者は追わず、だね。故郷を捨てて生き延びようとしている人にブダペストを守れって言っても無駄だわ。非戦闘員が自主的に避難してくれてラッキー、ぐらいに思っていたらいいわ!」

 女王はきっぱりと言った。軍務大臣は困惑した。

「しかし、ブダペスト中の戦える人間を招集せよ、とおっしゃったのは、女王陛下ではありませんか。彼らの脱出を止め、剣を持たせなければ、とても百万の軍勢は集まりません。私はブダペストの出口を封鎖し、残る健康な市民をすべて無理矢理招集するしかないと考えています」

「あ、それだめ」

 女王は即座に却下した。

「それはおとうさんのやり方とまったく一緒よ。あたしはおとうさん的な手段は一切排除するって決めたの。そんなことをするぐらいなら、あたしも荷物をまとめて、ブダペストから逃げ出すわ」

 彼女はあっけらかんと言った。大臣は二の句が継げなかった。あまりにも無責任だと思った。

「そ、それは王の発言とは思えません。あまりにも無責任です!」

「あたしの言ったことを忘れた?」

「なんのことです?」

「あの男の跡を継ぐなんてまっぴらと言った筈よ」

「しかし、陛下はブダペスト中の戦える者を招集しなさい、ともおっしゃられた」

「あ、ごめん。それ、興奮してはずみで言っちゃっただけなの」

 大臣はますます混乱した。先王の跡は継がないと言っておきながら、この気まぐれぶりはまったくもって変わりがない。血なのか、豚王家の血がなせるわざなのか、と彼は思った。

「では私にどうしろと言うんです? セールスマンみたいに戸別訪問して、どうか一緒に戦ってくださいとでも頼んで回ればいいんですか?」

 さすがに彼は憤慨し、女王に食ってかかった。

 が。

「ふーん、戸別訪問、ね」

 女王はそうつぶやいて、沈黙してしまったのである。彼女は、軍務大臣のやけくそ発言を真面目に検討し始めたのだ。

「うん、いいじゃない。戸別訪問してお願いするっていうのは、なかなかソフトなやり方だわ」

 彼女が瞳を輝かせて言ったので、大臣はあぜんとした。

「それ、あたしがやってあげるわ。そーか、そーか、その手があったか!」

 女王は喜々としていた。

 軍務大臣の常識がガラガラと崩れた。神聖不可侵である筈の女王がセールスマンの真似事をするなんて!

 時代は変わったのだ。女王はじゃあ早速行ってくるね、とはしゃいでいた。大臣は、彼女こそ尊敬すべき新時代の王なのかもしれない、という考えに取りつかれた。

 彼は側近の兵を呼び、市中の徴兵の立て札をすべて撤去せよ、と命じた。こうなれば、女王のやり方に殉じるまでだ、と腹をくくった。

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