第23話 遊子高原

 ロンドンがそんなふうに日々を送っていた頃、彼の旅仲間ラックスマンは使命感の人となってブダペストへの道をひたすら急いでいた。

 ラックスマンを忘れている読者が多いだろう。酒場でロンドンと野豚の大発生について語り合い、どのくらい発生しているのか見てやろうと遊子高原へ旅立った男だ。ロンドンがブダペストへ行こうと決意したときのことだ。

 ラックスマンは遊子高原で想像を絶する背筋ぞわぞわ冷汗凍結的風景に出会っていた。

 彼はロンドンと別れた後、まず遊子高原のふもとの村、マンマルーヤへ向かった。そこではすでに野豚来襲に怯える村人たちが離村の準備で慌てふためいていた。

 彼は野豚の調査に来た、と村人たちに告げた。彼らは目をまんまるくし、「そんなアホな真似したらアカン。わしらと一緒にすぐさま逃げるんや」と異口同音に答えた。

 彼らは無謀な旅人の無茶な冒険を本気で心配し、撤回させようとする心優しい人たちであった。どうしても行きたいんだ、そんなに危険なところなら気球で上空から見たい、と言っても「アカン、アカン」の一点張りである。

 仕方なく、ラックスマンは「豚王の命令で大発生の状況を偵察して帰らないと殺される」と嘘をついた。親切で人のいい村人たちはそれでやっと気球を貸してくれた。

 豚革を縫い合わせた気球で、ラックスマンは遊子高原上空を飛んだ。

 遊子高原は野生のキャベツが生い繁り、小さな湖が点々と連なる風光明媚な高原リゾート地である。あまりにも巨大な高原であるために、リゾート地といっても一か所に避暑客が集まってうっとうしいということもなく、のんびりしたいいところであった。

 ふだんは。

 しかし、ラックスマンが目撃した遊子高原は様相を一変していた。そこは、ゆっくりと進撃する豚の大地と化していたのである。

 初めは茶色くうごめくもぞもぞしたものが地面を覆っているとしか見えなかった。高度を下げるとそれが一面の野豚であることがはっきりして、怖気立つような戦慄が走った。鳥肌が立ちっ放しで、元に戻らなくなった。

「なんだぁこりゃあ……」という平凡な一言が、ラックスマンのつぶやけた唯一の言葉であった。

 一都市にも匹敵する巨大な密集した豚の群れが進路後方に干涸びた砂漠を残しながら進撃している。進路前方のキャベツ豊かな草原に比べ、後方は緑のかけらもなく、飲み干された湖が不気味なクレーターとなって、さながら死の月面世界といった状況を呈している。

 ラックスマンは「世界は豚に食い尽くされる」と悲愴な想いを抱いた。

 この恐るべき遊子高原の実態を見る前、彼は豚の大群を見て「こんなのが都会に出て行ったら大変だぁゲラゲラ」とでも笑う自分を予想していた。しかし、死の世界と化した遊子高原は、彼をにわかに人類愛地球愛といったものに目覚めさせたのである。

 全身震えながらも、豚どもにこの美しい星を殺されてたまるか、人類は負けねえぞ、絶対に阻止してやる、という決意が腹の底から湧き上がってきたのだ。一刻も早く豚王軍を決起させ、豚との最終戦争に挑まねばならぬ!

 野豚の大群がマンマルーヤに到達し、逃げ遅れた人々と、家々を津波のように飲み込むのが見えた。あっけないほど一瞬のことだった。

 ラックスマンは野豚の猛威が去ったマンマルーヤに降り立ち、未だにもうもうと巻き上がる土煙の中で歯噛みした。家屋は倒壊し、むしゃぶりつくされた人骨が散らばっていた。

 豚の進路は北を指していた。そのままキャベツ豊かな地帯を北上すれば、やがてはブダペストにたどり着く。あの巨大な群れが豚王国の首都を襲撃すればいったいどんな惨事が起こることか、という想像はラックスマンを戦慄させた。

 彼は野豚の群れを迂回して二日二晩走り続け、マンマルーヤの隣村サンカクーダへ行き、早豚を調達した。すぐさま騎豚の人となり、さらに不眠不休で一路ブダペストへと向かう。

 マンマルーヤからブダペストまでは二千キロメートルはあるから、豚どもがまっすぐブダペストに進撃したとしても、やつらの速度なら二か月はかかるだろう。おれは急いで十日で着いてやる、とラックスマンは誓った。

 旅の途中、彼はロンドンが巨大人骨車に乗ってブダペストに現れた、という噂を聞いた。あいつのことなら、今頃はもう豚王に接触しているだろう。ロンドンが野豚の情報を豚王に伝える橋渡し役になってくれる、とラックスマンは希望を持った。

 ブダペストに着いたときにはボロボロになっていた。彼は鉛のような体に鞭打って王城にやってきた。しかし、彼の風体を見て門番は、豚王はおろかロンドンに取り次ごうともしなかった。

「吉田ロンドン様は我が国の賓客である。貴様のような者に用はない」とにべもない。

「ばっかやろー、おれはこの国を救いに来たんだ。こうしてる間にも、野豚は迫ってきてんだぞーっ!」と食い下がると、槍で脅される始末だった。

 やむを得ず、彼は王城前広場で野宿して待った。機会は意外と早く訪れた。広場に一泊した翌日、ロンドンがなんだかすっきりしない顔で城門から出て来たのだ。それはロンドンがキャベツ姫から迫られた翌朝でもあった。

「ロンドン!」

 ラックスマンが叫び、かけ寄って行く。

「ラックスマン!」

 ロンドンが気づいて、顔を向けた。

 ラックスマンは今までロンドンが見たことのないほどの喜色を浮かべた。ボロボロの旅人は安堵感で体中の力が抜け、足がもつれて倒れた。ロンドンが助け起こしたとき、ラックスマンは昏睡していた。

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