幼い町
かまいたちが音もなく僕の二の腕を切り裂いた。
よく晴れた初夏の午後のことだった。
パクリとわれた白い傷口にかすかに血が滲んでいる。
刈りとった草の匂いを運ぶ風が傷口をやさしくなでた。
僕はその刈った草の匂いを運ぶ風と血のにおいが好きだった。
だけど、あの日を境に僕は別のものにとりつかれることになったのだ。
野外学習が終わると、みんなゾロゾロと行列をつくって、縮れた草の葉のあいだの小道を歩いて野っ原をひきかえす。誰も先生の話なんか聞いちゃいない。何をしに来たんだか。
「なにやってんだあいつら」
中学校の授業なんてそんなものだ。
だから、僕は、僕の退屈な時間はもうすぐ終わるだろうと思っていた。
学校に帰ってから放課後、渡り廊下で、
「蛆がわいてますよ」
一コ下の放送部の後輩、加藤が言った。僕が、
「何それ?」
と訊くと、加藤は僕の腕を持ちあげ傷口をのぞきこんで、
「ほら」
なるほど。見ると白い傷口に隠れるように白く細いミリ単位の何かが身をよじっている。
僕はビクッと身ぶるいした。
そういえば思い出した。かまいたちに切られた後、どこからか青蝿が飛んできて僕の腕にとまった。なんど追いはらっても僕の腕に戻ってきた。あの時、すきを見て産みつけたのだろう。
なぜ僕はこうもいつも妙な虫に好かれるのか。なぜかそんな虫がついた時に限って僕は妙に嬉しくなり、ひどく罪悪感を覚えてしまうのだ。指で取ろうとすると、
「だめ。だめです」
加藤が言った。
「つぶれちゃう」
僕の手をつかんで離さない。
加藤が顔を近づけたので髪が肩にかかる。
甘いいい香りがしたことも、くすぐったそうな表情をしたのが気恥しいとは、ちっとも思わない。
「やめろよ。つぶれたっていいじゃないか」
僕はようやく手を引っこめようとしたが、
「だめですって」
加藤は僕から離れようとしなかった。しばらく様子をうかがうように、
「いやです。そんな……いやです」
あからさまな上目づかいで僕を見あげて加藤が言った。
「殺さないでくだい」
「え、なんで」
「お願いします」
「やだよ」僕は言った。「なんでそんなことを」
「お願いします」
うるうるした目で見つめられると、何か逆らえなくなりそうだ。
「おれが食われちゃうじゃないか」
それでも、なんとか首を振ると、
「先輩が食べられないように、あたしが餌を運びます」
「おれの腕で蛆を飼うのか?」
「なんでも言うことを聞きますから」
僕は少し考えるそぶりを見せた。
「なんでそんなことをいうんだ?」
「あなたが好きです」
加藤は上目づかいで媚びるのをやめて、僕の顔を見てはっきりと言った。
「……え?」
加藤は真剣なまなざしで僕の顔を見据えている。加藤が見つめてきて僕の心臓が跳ねまわった。頭がぼうっとして、ただ見返しているのがやっとだ。
「おれのことを知らないだろ」
僕が言うと加藤は頷いた。
「はい」
「で、これを」
僕が小さな、小さな、見えないくらいの白い蛆を爪の先でつつくと加藤はビクッと体をふるわせた。
「飼いたいだけじゃないのか」
加藤は首を振った。
「あなたが好きです」
加藤は言った。
「あたしを恋人にしてください。つきあっていただけたら何でもしますから」
加藤は新入部員だが、声が綺麗で話し方が気持ちいいのですぐにアナウンサーに抜擢された。
それ、だけあって、言うことに説得力がある。
「オーケー、わかった。いいよ」
「はい」
加藤は嬉しそうな顔で返事をすると、遠足にきた小学生のように、その場でポンと跳躍した。
「ありがとうございます。責任をもって餌をやります」
「でも、こいつ、ほんとうにおれを食わないよね」
彼女は一瞬まじめな顔をして、それから、
「たぶん」
と言って微笑んだ。
援助交際がはじまった。
対価があるんだから、そうだろ。僕が言うと、加藤はしぶしぶ、
「それでいいです」
だって恥ずかしいから、と僕の気持ちを見透かしたように認めた。
加藤は毎日、なんども僕に会いにくる。
また来やがった、と僕があきれ果てるのにつきあって、加藤は楽しそうに笑うのだ。
「それじゃあ、お任せ!」
と口にの中に含んだ何かを、僕の二の腕に口づけして、舌の先でつつくように蛆に餌を与えている。
ほんとうのことを言うと、僕に拒否権はなかったんだ。僕たちは、セックスを日常的にしていた。
あの時、
「何でも言うことを聞くんだろ」
僕が言うと、彼女が、う、と小さくつぶやく。それ以上は何も言わず、彼女は服を脱いだ。
はだけた白いブラウスの下につけたまっ白い下着よりもさらに白い肌が眩しい。
「冗談だとは思わないのか?」
「わたしは冗談を言わない」
加藤は言った。
「あなたは、ちがうの?」
わからない、と僕は彼女に言った。
「でも、僕は、加藤のこと好きなんじゃないかと思ってる」
「じゃあ、構わないでしょ」
僕は「そうだね」と言って彼女に倣う。
彼女は何も考えずに僕を受け入れた。加藤はそれから何度も僕に抱きついて、しまいには僕の方から彼女を離した。
「もうしないの?」
「いまは、ね」
彼女は首を振っている。
加藤は蛆にそうするように僕の性器をそっと口に含むと、ほとんど膨らみのない胸を腿に寄せて、愛おしそうに抱きしめた。
そんなことが、何週間も続いた。
僕の記憶は、薄っすらと青ざめ、僕はそれを、ぼんやりと眺め、ときおり、夢のように彼女のことを思う。それは、あれから、ずっと続いている。それにしても、彼女とのセックスは楽しかった。
早々と、雨の季節が終わろうとしていた。
放送部はやめなかった。
放送中、傷の残る二の腕を観察していたことがある。なにしろ、暇なので。
仕事を怠けてしまうと、ほんとうにすることがない。
スピーカー越しに加藤が話す声を聞いていると、いい気持ちで眠くなる。
眠気を覚まそうと、腕を曲げ伸ばししてみても、蛆は見えない。傷はまだ小さな口を開いている。見えないってことは体の中に入っちゃったんじゃないのか。
僕は心配になって、そこらへんの紐で腕の付け根を縛った。
血管をつたって心臓までさかのぼったりしないように。
放送後、加藤は言った。
「そんなことをしなくてもだいじょうぶです。呼べばすぐ姿を見せますから」
加藤が言うので目をやると、白く開いた傷口にまた蛆がうごめいている。
昨日よりさらに少し太ったようだ。
「成長するんですよ」
僕の腕をとりあげた加藤は、満足そうに笑った。僕の腕をみつめながらニカッと笑う彼女、その笑顔を僕は心底から美しいと思う。
加藤は、その美しい笑顔のために、そして僕の傷をあたためるために僕に、たくさんの嘘を教えた。けれど、僕はその残酷で、残酷な嘘が好きだ。
「おい加藤、まだか。もう少しで終るよな」
「はい。もうすぐ」
と言いながら、彼女は餌やりを長引かせる。
加藤は、残酷さが、ほんとうの優しさだと思っているようだ。
ある日、加藤は学校に来なかった。
僕は屋上で上半身裸になって、腕を思いっきり振り回し、彼女をあぶり出してやった。
「おや、君は昨日の……どうしたんだ? そんなに僕に逢いたかったのか」
学校が休みの日には、こっそり家に泊まりに来るのに。
来ないわけはなかった。
加藤は、僕の顔を見つめながら口元をほころばせた。
彼女は僕の胸にしがみついてきた。加藤の匂いがした。僕は彼女の頬にキスをした。加藤は、僕の頬を舐めた。
「君の前髪が長すぎる。僕の顔にからんで、目にかかるし、まつげも邪魔だ。でも、もっと伸ばせばいい」
もちろん嘘じゃない。
屋上の強烈な日差しを遮って日陰になるほど、加藤の髪は長く、目の前が真っ暗になるほど、彼女の、その髪は黒かった。
「そうすれば、絶対に何も、前が見えなくなる」
なんて言ったって、長い前髪の奥から加藤は優しく僕の頬を触り、口元に舌をうずめた。
彼女の唇が触れた。そのときの感触は、生々しく、生温く、熱くて、でも少し震えている感触があった。そして、唇は離れていった。僕の体は軽くなるばかりで、彼女に触られていると、何もできなかった。もう彼女は僕に何もしなかった。
僕は、彼女の手を引いて、僕たちはそのまま裏山へ逃げた。
山からは、木々の揺れる音と蝉の声が重なって聞こえてきた。
僕らの行く先は、山道が途切れた先に隠れた。
脚が、自然と走り出す。
「ねえ、もう少し早く走れるよ? もう少しで頂上だよ」
加藤が言った。
「行こう」
僕たちは走った。
「でも頂上まで行ったら、その先は……」
どこに行けるんだ?
加藤は振り返って僕の顔を見た。
「どうして、わたしを、捕まえないの……?」
加藤は見えない色を見る。見えない色を見る加藤の目の色は複雑な陰影に富んでいる。
これから先のことは、気にならなくなった。
夕立が真っ暗な空から激しい雨を降らせた。
空どころか、激しくたたきつける大粒の雨も見えない。
遠くで雷鳴が、空に向かって吠えていた。
僕は、教室に入るとそっと窓を開いた。
まだ雨は降り続いている。
雨粒が光に照らされて一瞬白く輝く。
目をつぶろうとしたが、目を開けていないわけには行かなかった。
瞼の裏は明るすぎる。
稲妻をまともに見たのがいけなかったのか。
「まだ降ってるね」
加藤はいつもの場所に座っていた。
「君って、そんなところで見てたんだ?」
遠くで、音が消えた。
僕は耳をすませていた。
遠くでまた音が消えた。誰かが、誰かを呼ぶ声に交じってなにか囁いているように聞こえた。誰かの声は、遠くで、遠くで、消えていく。
誰かが呼んでいる。
遠くからでも聞こえた声が、すぐ近くにいる。
窓の外に光が射した。
そして僕は目をつぶる前に見た。
もう、光なのかどうかも分からないそれは、まるで僕の心を覗き込んでいるように思えた。
彼女の瞳が僕を見上げた。だけど僕は何も言うことができなかった。もう二度と、彼女に会えないような気がしたから。彼女は、僕を笑った。
騒々しい靴音を立てて、懐中電灯を振り回し、顔の見えない男たちが乗り込んできた。
まず僕を捕まえに来る。
交差する強烈なライトがまぶしい。
僕を取り押さえ、羽交い締めにすると、奴らは彼女に襲いかかる。加藤は捕まる。そして、僕には何も話してこず、何も言わず、加藤の服を剥ぎ取ると、窓から投げ捨てた。
加藤は悲鳴をあげて、逃げていった。悲鳴は、僕にも聞こえた。いや僕にだって聞こえた。だが彼らの力は強く、羽交い締めにされて身動きできない。奴らは加藤を追う。僕をひっつかみ、抱えたまま風のように走ってく。
彼女の逃げ足は早くない。やがて、奴らに取り囲まれた彼女の姿が、地面に引き倒された。
殴る音。蹴る音。何かをたたきつける衝撃。
僕は彼女を助けようと必死にもがいてみたが、もうそれは無意味な行動だと悟った。
加藤の姿はもう見えず、僕は僕で悲鳴をあげ続けることしかできなかった。
僕の体は、無造作に投げ捨てられた。
加藤の体は僕とは比較にならないくらいひどく痛めつけられて、女子トイレの床にころがっていた。
僕は最後の最後に彼女の名前を叫んだが、返事は聞こえなかった。
もう殺されているとも。僕は思った。
なのに僕は、彼女を抱きしめた。
血の気がない。ただ、彼女の体がまた、蠢いた。そんな気がした。
黒い艶かな髪に光が映ったのが、そう見えただけだ。
もう助からない。
僕はあることを思いついた。
加藤があの瞬間、僕のすべてを手に入れたように、今、彼女は僕の手の中に落ちてきたんだ。彼女もきっとそう思う。
僕はトイレットペーパーを外して、それで加藤をぐるぐる巻きにした。
加藤に添い寝、自分にも巻きつける。
どうやったのか、僕の両手が、彼女の体の全てに触れて、加藤の体は相変わらず僕にすり寄ってきて、自分でも信じられないが、綺麗にすっぽりと、二人の体をくるんでしまった。
僕はただ、どこからか、それをじっと眺めていた。
僕は静かに涙をこぼした。
連中は駆除に失敗した。
加藤は消えて、僕も消える。
それでも、奴らは失敗するのだ。
蛹から飛び立つのは一匹の蝿ではないだろう。それはたぶん……
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