第143話 円は俺のもの。


 見上げる様な大男、中等部の時はたいして変わらない背格好だったのに。

 

 橋元は見下ろす様に俺を真顔で見つめる。


 逃げるわけにはいかない、いくらずっと世話になっていたからと言ってここで引くわけにはいかない。

 橋元はトイレの窓枠に手を添え、威嚇するかの様に胸を張り斜に構え俺を睨み付ける。

 俺も壁に手を添え、いつでも反応出来る様に準備をする。

 ジリジリと焼ける様な空気、今にも襲い掛かって来そうな橋元の雰囲気。


 あの試合、円と一緒に見たあの試合の時に様な表情、まるで前の打席でデッドボールでもくらったかの様な怒りに満ちた橋元。


 そしてそのデッドボールを投げたのは紛れもなく俺。


 円との事をいい加減に言ってしまった俺に対する橋元の怒りがヒシヒシと伝わる。

 

 その時後ろから人が入ってくる。しかし俺も橋元もそいつに視線を移す事はない。命のやり取りをしている最中によそ見をする奴等いない。


 鼻歌混じりにトイレに入ってきたそいつは一瞬でその場の空気を察する。

 俺と橋元の間に流れる冷たくそして熱い空気を感じ取ったのか? 黙ってそっと出ていった。



「話がある」

 そしてそれを切っ掛けに俺は橋元に向かって先に口を開いた。


「円さんの事、しか無いよな」


「ああ」


「へえ、お前も、そんな目付き出来るんだな、走れなくなってから腰抜けのお前が」


「そんなってなんだよ……」


「俺が対戦しているバッターやピッチャーの様な目付きだよ」

 橋元はそう言いゆっくりと俺に近付く。

 そして俺の肩を掴むと、指先に力を込めた。


「な……」


「円さんから……話は聞いた……」


「……ど、どこで、だよ」

 俺がそう言うと橋元は俺の鎖骨を折る勢いで俺の肩をさらに強く握る。

 ミシミシと音が鳴るかの様に強く掴む橋元、俺の肩に激痛が走る。


「ホテルの部屋で、二人っきりでさ」

 橋元はそう言って凄惨に笑った。

 普段は爽やかと言っていい笑顔の橋元、しかし今は、マウンドやバッターボックスに立ち、強打者や凄腕投手を完膚なきまでに叩きのめす鬼の様な目付きで俺を見ている。


「嘘だね」

 普通の奴ならこれで、この目付きで逃げ出すだろう。しかし俺は負けるわけにはいかない、俺だって強い選手達と戦って来たのだから。


「……何故そう思う?」


「円がそう言ったから、橋元の従兄に会ってたって」


「ははは、何故それが本当の事だって思う? 円さんの嘘かも知れないぜ」


「そ、そんなの信じてるからに決まってるだろ?」

 俺は即答した。


「く、くくく」


「な、なんだよ」


「笑わせるな、興味なかったんじゃねえのか?」


「うるせえよ!」

 俺は橋元の肘にそっと触れると、利き腕では無い左肘の肘部管を押し尺骨神経を圧迫する。


「うお!」

 俺は片足でステップバックすると、いつでも攻撃できる様に洗面台に捕まりながら橋元に向かって人差し指を突きだして言った。


「いいか、よく聞け! 俺はもう逃げない、円は、円は……お、俺のもんだああああああああ!」


「……ひうっ!」

 橋元に向かってそういい放つと、何故か俺の後ろから男子トイレには似つかわない甲高い声が聞こえてくる。


 俺はいつでも橋元の攻撃を交わせる様にしながら、ゆっくりとその方向に視線を移すと、そこには……円が真っ赤な顔で立ち尽くしていた。


「ああああ、え、えっと、なんか喧嘩してるって言ってて……それで……その」

 俺の視線にモジモジとしながらそう答える円……。


「っっっ!」

 俺はそれを見て、その普段見た事の無い恥じらう円の姿を見て、声にならない悲鳴をあげる。


「いってえなあ、本当、いてえよ」

 橋元は肘を抑え二度程腕を振ると、そう言いながら俺の横を通り抜け、円の肩にそっと手を置く。

 そして、ポンポンと円の肩をそっと二度叩き、そのままその場を後にした。


 な、なんだよそれは! まるでわかりあっている様な二人のその雰囲気に嫉妬して思わず橋元に向かいそう文句を言いたかったが、円はそんな橋元を全く相手にせず、俺をじっと見つ続けている。


「だ、大丈夫?」

 そして……とりあえず俺の言葉は聞かなかった事にするかの様に、俺に向かってそう言った。


「だ、大丈夫……うん」


「そか」


「あ、あーーえっと、まだなので、ちょっと待ってて」


「え?」


「あ、えっと……その……トイレがまだなので……」


「あ、あああ、うん、はい! えっと、その……ごゆっくり」

 円は真っ赤な顔でそう言うと、慌てて扉を閉めた。


 男子トイレを覗いたからなのか? 俺のもんだって言ったからなのか? トイレがまだって言ったからなのか? 円はそのどれに照れたのだろうか? 俺は用を済ませ、しっかりと手を洗いトイレから出ると、円も何事も無かったかの様に俺の腕に自分の腕を添え俺を支えた。


 そして二人ともに何も喋らないまま教室に戻る。


 とりあえずお互い無かった事にしようという空気が二人を包む。

 

 でもまあ、無かった事にはならないよなあ、多分……。


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