★★★ Excellent!!!
花と畢生 姫乃 只紫
作中における〈花〉の変遷が面白いなぁ──と。
「壱 杜若」において、生け花は相応の身分にある者のたしなみとして描かれています。この時点では、あくまでたしなみでしかなく。〈花〉は物語のヒロインである彼女の美しさを際立たせるもの。飾り立てるものとして機能しているわけですが。
調べてみると、この生け花というのが面白くてですね。流派にもよるそうなのですが、フラワーアレンジメントが三六〇度どこから鑑賞しても美しいを志す一方、生け花は鑑賞者の視点が決まっているそうで。
とどのつまり、この角度から見てこそ完成形。この立ち位置から対象を味わうのが大前提。それ以外からどうか〈私〉を見ないでね──というのが生け花の主流なあり方らしい。
そう考えると、立場上男に生まれた方が何かと都合は良かっただろう(男に生まれたかっただろうと書くのは何やら違う気がした)彼女──以降影を見せてゆく彼女が、鑑賞者の立ち位置を指定する花を生け続けるという構造自体、物語として面白くも皮肉めいているなぁ──などと。
〈花〉はときに彼女の代弁者、時の流れを指し示すものとして機能するのだけれど。当然のことながら、特段姫さまのために何かをしてくれるわけではありません。こと「漆 山桜」においては、姫さまをただ俯瞰するもの──彼女を取り巻く景色の一部に過ぎず、どこか距離さえ感じてしまいます。
それが「玖 彼岸花」において、はじめて〈花〉が物語に干渉してくる。
と、同時に「もう元には戻れない感」(戻りたい元とやらが明確にあったかどうかはさておき)も色濃くなるわけで。初見だと「終 あまたの花々」に「え、もう最終話?」と感じた方は少なくないと思うのだけれど。再読すると「拾 梅」において登場する梅の花はもはや花器がない以上、柱に括りつけられる他ないわけで。
鑑賞者を失ってしまった。見せたい完成形を失ってしまった。
こう…
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