第82話 星川明里と善道悪津

 先に風呂から上がった俺は、部屋の中に布団を敷く。

 念のために布団に消臭スプレーを吹きかけておく。


「上がったよ~」


 そうこうしている内に、星川がお風呂から上がったらしい。

 風呂上がりでほんのりと赤く染まった頬。

 濡れた髪。

 そして、下着にシャツと短パンという露出の多い格好。

 刺激の強い格好ではあるが、風呂を乗り越えた俺に死角はない。


「あっくん、髪乾かしてくれない?」


 ドライヤーを持った星川が俺にお願いする。


「ああ。それくらいならいいぞ」


 背中を流すことに比べれば、髪を乾かすことなど簡単だ。

 そう思い、星川からドライヤーを受け取り畳の上に座る。


「じゃあ、よろしく~」


 星川はそう言うと、胡坐をかいている俺の足の上に座った。

 その瞬間、甘い香りが鼻をくすぐる。

 その香りのせいか、さっきまで大人しかった心臓が再び高鳴る。


 今日だけでどんだけドキドキするんだ。

 これ、俺女性の裸とか見た日には、心臓破裂して死んじゃうんじゃないだろうか。


「どうしたの?」


 フリーズした俺を下から覗き込む星川。

 

 俺がこうなっている元凶だと言うのに、一つも悪びれてない。


 許せん。こいつは分からせる必要がある。


「なんでもねえよ。ほら、やるからな」


 ドライヤーを片手に星川の髪を乾かす。

 だが、ただ乾かすだけで俺は終わらない。


 食らえ!

 イリス様を骨抜きにするために鍛え上げた俺の絶技・頭皮マッサージを!!


「ふわぁ……。にゃ、にゃにこれ……。あっくん、上手すぎだよぉ」


 俺の絶技の前に、あっさりとトロ顔を晒す星川。


「誘ったのは星川の方だからな! 後悔してももう遅い!」


「ふわぁ~」


 頭皮を傷つけずに、程よく気持ちよくなるように、丁寧に、かつ優しくマッサージをした結果、星川の髪が渇くころには星川は気持ちよさそうな表情を浮かべ、完全に脱力していた。


「あ、あっくん、ありがとう」


 脱力し、俺に身体を寄りかけながら感謝を伝える星川。


 まだだ。こんなところで終わらない……!

 星川がもう俺を誘惑できないように、撤退的にやる!


 素早い動きで星川をうつ伏せで布団の上に寝かしつける。そして、星川の肩を揉む。


「あ、あっくん!? それっ……だめぇ……」


 情けない声を上げる星川。

 星川の肩は予想以上にこっており、それが、俺のマッサージ魂に火を点けた。


「おらおら!! 情けない声上げて、大人しく癒されやがれ!!」


「んっ! あっ……そこ、いいっ……」


「おらぁ!!」


「だめっ! らめえええええ!!」


***


「はあ……はあ……。ふう。これで終わりっと。あれ、星川?」


 星川の肩を軽く叩くが、反応が無い。

 耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえる。


「寝ちゃったかぁ。まあ、ここ最近大変だったし、疲れも溜まってたのかもな」


 時計を確認すれば、時間は夜の十時だった。

 普段はもう少し遅い時間に寝るが、星川も寝てしまったし、今日は早めに寝よう。


「本当に、ありがとな」


 星川の身体を布団の中に寝かし、掛け布団をかける。

 そして、星川が寝る場所から離れ、俺も寝転がった。


***


 ……寝れない。

 布団ではなく畳というのも寝れない理由の一つだろうが、すぐ傍で美少女が寝ているという事実によって、知らず知らずのうちに緊張してしまっていることが一番大きな要因だろう。

 明日から学園に通う必要が無いため、早起きする必要はない。

 ……必要はないのだが、星川を最後に見送るくらいはしてやりたい。

 仕方ない。羊でも数えてみるか。


 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。


 ……羊のコスプレをしたイリス様が二千九百三十五人、羊毛のセーターを着たイリス様が二千九百三十六人、羊と戯れるイリス様が――。


 大量のイリス様に囲まれている場面を想像していると、突然、背後から足音がした。

 その足音はゆっくりと俺に近づいてきて、そして、俺のすぐ後ろで止まった。


「あっくん……? 寝てる?」


「起きてる」


 足音の正体は星川だったらしい。

 幽霊じゃなかったことに一安心しつつ、星川に返事を返す。


「そんなとこで寝たら風邪ひくよ。布団で寝なよ」


「あー、布団一つしかないんだよな。俺はいいから、星川が布団で寝てくれ」


「そんなのダメだよ。私が無理矢理押しかけたんだから、あっくんが布団で寝てよ。もしくは、二人で寝ようよ」


「何言ってんだよ。いいから、星川が一人で布団使えって」


「やだ。なら、私もここで寝る」


 そう言うと、星川は俺の隣に寝転んだ。掛け布団も使わずに。


「……分かったよ。俺も布団で寝る。ただし、お互い離れて寝るぞ」


「うん!」


 流石に、布団を誰も使わないというのはおかしいと考え、二人で布団を使うことを選ぶ。

 離れて寝るといっても、精々一人用の布団の大きさだ。

 星川が動く音も、寝息もはっきりと聞こえる。

 眠れないまま、星川に背を向けて羊を数える。


「あっくん……寝てるよね?」


 背後から星川の声が聞こえたかと思えば星川がもぞもぞと動き出す。

 そして、星川は俺の背中にピタリと張り付いた。


「もし、起きてるなら何も言わないで。黙って、聞いてて欲しい。返事も何もいらない。これから話すことは、ただの私の独り言」


 星川に返事を返そうとした時、星川のその言葉が聞こえた。

 今、星川が俺に望んでいるのは寝たふりをすること。なら、俺はそれに応えようと思った。


「……私ね、アイドルになるよ」


 星川はそう呟くと、ポツリポツリと詳しい内容を語りだした。


「修学旅行から帰って来て少ししてからね、街中でスカウトされたんだ。そこまで有名じゃない事務所だったんだけど、スカウトしてくれた人の目がね、真っすぐで一生懸命だったんだ。あっくんみたいなバカの目。だから、そのスカウトを受けることにしたの。多分、一か月後には本格的にレッスンも始まると思う。私ね、夢を追いかけるよ」


 喜ばしいことなのに、星川は寂しそうに語る。

 そして、星川が俺の首回りに腕を伸ばして、ポツリと呟く。


「……好き」


 それが誰に向けられた言葉か、聞くまでもなかった。


「大好き。誰よりも好き。イリちゃんに負けないくらい好き。あっくんがイリちゃんを思う気持ちに、負けないくらい好き……。夢を捨ててもいいと思えるくらい、好き。嫌だよ……。いなくならないでよ……ずっと、ずっと傍で私のこと見ててよ……」


 それは星川の心からの叫びだった。

 俺はその叫びをただ黙って聞くことしか出来ない。

 星川は声を押し殺して泣いていた。

 小さな子供の様に、一人で静かに泣いていた。


 暫くして、星川は泣き止んだ。

 それと同時に、俺の首に伸ばした腕を引っ込める。


「……あっくんを苦しめるようなこと言っちゃって、ごめんね。それと、お願いが一つだけあるの」


 星川は、そこで一度息を吸った。


「これからも見てて欲しいの。私は、きっと世界一のアイドルになって見せるから、だからこれからも見てて。あっくんがいなくなったとしても、私のことを、星川明里のことを見てて欲しい」


 星川はそれだけ言い残して、俺から離れていった。


 今まで当たり前に傍にいた人がある日突然いなくなる。

 それは誰にでも起こりうることだ。

 それでも、それが悲しいことに変わりはない。それを理解していても受け入れられるわけじゃない。


 善道悪津はいなくなる。

 他でもない俺がそう決めた。でも、星川の心の中でもきっと善道悪津は生き残るのだろう。

 何か残したい。

 善道悪津がいない世界を生きる星川に、善道悪津に恋した星川明里という少女のために、善道悪津として何か残したいと思った。


***


「あっくん、起きて! 朝ごはん出来てるよ!」


 朝の陽ざしと供に、星川の声が頭に響く。

 目を開けると、そこには制服を着た星川の姿があった。

 どうやら、昨日の夜、俺は知らず知らずの内に眠ってしまっていたらしい。


「あ、ああ……。今、何時?」


「七時だよ。私は、この後一回家に帰るつもりだから、最後に朝ごはんだけ一緒に食べよ」


 昨日の夜の涙が嘘の様に、星川の顔は晴れやかだった。


「ああ。そうだな」


 星川の言葉に返事を返し、洗面所で顔を洗う。

 寝癖を軽く直して、部屋に戻ると、机の上には美味しそうな朝ごはんが並んでいた。


「おお、うまそう」


「さあ、食べちゃおっか」


「「いただきます」」


 手を合わせて、朝ごはんを食べ始める。

 程よい塩加減の鮭の塩焼き。優しい味の味噌汁。炊き立てのご飯。

 ここ最近はコンビニで買ったパンで済ませることが多かったせいか、想像以上に美味しく感じた。


「ごちそうさまでした! いやー、美味かった! ありがとな」


「喜んでもらえたなら良かったよ」


「皿洗いは俺がしとくから、星川は出る準備しとけよ」


「そう? なら、お願いしようかな」


 星川にそう言って、洗い物を持って台所に向かう。


 さて、星川に俺がしてやれること、残せるものは何があるんだろう。

 それを考えている内に時間はあっという間に過ぎ、お別れの時間がやって来た。


「じゃあ、私は行くね。今までありがとうあっくん。元の姿に戻っても、元気でね」


 玄関で星川が微笑む。

 これが、最後になるかもしれないのだ。


「星川」


「なに?」


「善道悪津の連絡先あるよな? そこに善道悪津はまだいるから……だから、辛いこととかあったら連絡しろよ。それと、これからもずっと見てる。善道悪津という人間はいなくなるけど、善道悪津の意思も、記憶も、全部残るから、これからも星川明里を俺はずっと見てる」


 考え抜いた結果、俺が星川に残せるものはそれくらいしか思い浮かばなかった。

 善道悪津として生きていく中で作った、善道悪津の連絡先。それが、きっと唯一俺から星川明里に残せるものだ。


 俺の言葉を聞いた星川はポカンとした表情を浮かべた後、微笑みを浮かべる。


「ズルいなぁ。そんなことされたら、私、あっくんのこと忘れられなくて次の恋に進めないじゃん」


「え!? あ、いや、そういうつもりじゃなくて……!」


「分かってるよ。ありがとね。あっくん……私、頑張るよ」


 星川が笑う。

 その目元には涙が浮かんでいた。


「ねえ、あっくん。最後のお願い。使っていい?」


 そう言えば、星川は三つ目のお願いを言ってなかったっけ。


「ああ、勿論だ」


「じゃあ、あっくん。目をつぶって」


 ドキッとした。

 俺もバカじゃない。星川が何をしようとしているのかは分かる。

 まあ、ほっぺにキスくらいなら……。


「分かった」


 星川に返事を返し、目を閉じた。




***<side 星川明里>***


 私の目の前で、あっくんが目を閉じている。

 これが、本当に最後。

 最後は泣かずに笑顔で終わろうと思っていたのに、結局胸の奥から込み上げる思いは抑えきれず、涙が出てしまう。

 でも、それはあっくんが悪い。

 あっくんが、最後に連絡先のこととか、私を見てるってこととかを言わなかったら、こんなにも私の心は高鳴ることは無かった。別れが辛くなることは無かった。

 だから、これからすることはあっくんへの仕返しだ。

 一人の女の子を本気で惚れさせたら、どうなるか、その身体に教え込むのだ。


 あっくんに一歩近づき、あっくんの頬に手を触れる。

 そして、背伸びをして私はあっくんの唇にキスをした。


「んん!?」


 私の行動が予想外だったのか、あっくんが目を見開く。

 後悔してももう遅い。

 でも、許して欲しい。これからいなくなる善道悪津の最初で最後のキスを奪ったことくらい。

 だって、そうしなきゃイリちゃんでいっぱいのあっくんの頭の中に、星川明里という少女が残らないような気がするから。


 永遠のような、一瞬のような時間が終わりを告げる。

 名残惜しいけど、私はあっくんの唇から私の唇を放した。


 そして、まだ動揺しているあっくんから離れて玄関のドアを開ける。


「あっくん! 大好き!! 愛してるよ!!」


 それだけ言い残して、私はあっくんがいるアパートを後にした。

 これでお別れ。本当に最後。


 そう思うと、涙が溢れて止まらない。


「星川明里!!」


 アパートを出て、少ししてから後ろからあっくんの声がした。

 振り向くと、少し離れた位置にあっくんがいた。


「お前と出会えてよかった! 一生忘れない! ありがとう! 頑張れ!」


 そこであっくんは息を吸う。

 そして――。


「明里!!」


 ――大きな声で、私の名前を叫んだ。


「もう……最後に名前呼ぶのはズルいよ……。バカ」


 涙が零れ落ちる。

 嬉しさがこみ上げる。

 だから、私は笑顔で手を振った。


 家までの道を歩く。

 今日、私の初恋が終わりを迎えた。

 悲しくないと言えば、嘘になる。でも、何故か心は晴れやかだった。

 私は、あっくんに恋をしたこの数か月を絶対に忘れない。

 私が恋をした、善道悪津という一人のバカを何度も思いだす。


 空は快晴。

 今夜も満点の星空が見えそうだ。


***<side end>***

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