③ オレンジにはオレンジを!

 翌日も爽やかな晴天。青い空に白い雲、緑の丘にサフォークの羊。その麓に広がる森林と開けた土地には『スミレ・ガーデン』。小さなバラのつぼみが見えてきた。


 もうすぐ一斉に、そして順々に咲き始めるとローズの優雅な香りが風に漂うようになる。今年も楽しみで仕方がない。咲いたら奥様と約束したとおりに、父のSNSに投稿してもらおう。


 今日は盛夏に咲く花たちの成長具合を確認して庭を歩く。歩きながら、まだ庭のデザインを改良できないかも考える。出来たら、あそこに座れるベンチをもうひとつ欲しいな。いまは舞が仕事で休憩できるためのベンチが納屋の側にひとつしかない。それとは別にあの位置に置けば、牧草的に広がる花畑の向こうに緑の丘の重なりが見えて、のんびり過ごしている白い羊が点々と見えて、丘の上にはひつじ館、そして、青い空と白い雲。ここならリージャン・ロード・クライマーの群生も一緒に視界に入る。そう、まさに絵本の世界。きっと夜には満天の星も見られるはず。それは閉店後もこの場所に住んでいる舞と父だけの楽しみ方だけれど。


「そこのバラにつぼみがつき始めましたね」


 虹色をまとった黒髪をなびかせるカラク様が現れた。

 いつも気配なしに舞の後ろにいる。でも舞は笑顔で振り返る。エプロンのポケットに忍ばせていたものを舞は彼に差し出す。


「おいしかったので。一緒に食べましょう」


 彼が微笑む。幸せそうに。たまに見せる憂う眼差しが気になるけれど、彼が舞を訪ねてくる限りはこうして過ごしていこう。誰だか知らないけれど。どうして現れたのか知らないけれど。なにをしてやれるかわからないけれど。私の花を楽しんでくれて、父のお茶を好んでくれて、優大の焼き菓子も楽しみにしている彼と一緒に……、こうして。


 納屋にあるベンチに座って、舞はそれを頬張る。舞が頬張ると、彼の手にも同じ菓子がある。彼も一口頬張った。


「うん! いいですね!」

「オレンジティーと合わせるために作ったとパン職人の彼が言っていました」

「そうなのですか。それならそうしたい。舞、食べるのをやめて、お父さんのところに行きましょう!」


 とても張り切った姿を見せたので、舞は呆気にとられつつも、頬張るのをやめてラップに包み直す。いつもどおり、午前の休憩時間を狙ってこの人が来たのだからと、舞も畑仕事をやめてカフェに戻った。


 だが父は、今日もオレンジティーと言い出した娘に対し怪訝そうな渋い顔になった。


「舞、昨日の優大君とお父さんの打ち合わせ内容を知っているはずだよ」

「うん。わかってる。オレンジティーにオレンジ風味のガトーショコラの組み合わせはやめておけ、でしょ」

「だったらどうして」

「でも。組み合わせって。お客様が選ぶものじゃないの。……えっと、生意気いうかもしれないけれど。オレンジティーにオレンジ風味のお菓子を合わせる人だっていっっぱいいるよ」

「それは構わないんだよ。ただお父さんが喫茶の仕事を全うしてきたからこそ、娘に美味しく食べて欲しいおすすめをしているのに、何故に変えようとしているのかということなんだよ」


 私じゃないんだよ。私だったらノンフレーバーの紅茶で食べたいよ。カフェまで一緒についてきて、ワックス・サシェを飾ったいつもの窓席に、のんきに座っているカラク様を舞は見る。父と娘がなにやら言い合っていても、我関せず。早くお茶がほしいはずなのに、いつもの優美な笑みのまま、ゆったり待っているだけ。


「それで。お茶はなににするんだ。またオレンジティーでいいんだな」

「ううん。セイロンのストレート。ホットで」


 もう自分が飲みたいものを頼んだ。これにはカフェラテだの、毎日オレンジティーオレンジティーとやってくる黒髪の兄さんのことなど知らない。私のお茶の時間だから好きにさせてもらう。それでも父が煎れてくれるお茶は格別なので、そこは甘えてしまう。そして父もなんとなく不機嫌な顔のまま、娘のためにバリスタスタイルで茶器を準備してきちんと煎れてくれる。


 カラク様がいるテーブルに舞も座った。父が窓を開けたのか、まだ開店前の午前の風が入ってくる。昨日、舞がカラク様のものだと購入して飾ったワックス・サシェが揺れている。そのたびに、ほのかなハーブの香りも漂う。


「ああ、香りがします。舞が僕にと飾ってくれたサシェからですね」


 ローズマリーの香りに、舞も少しだけ荒れた心の波が優しく凪いでいく。


「ほんとうだ。こんなに香りがするんですね」


 綺麗な鼻筋、その鼻先をふっと壁にあるワックス・サシェへと向け、彼がまた麗しく目を伏せる。長い睫の毛先の虹色に、舞もみとれていた。人なのに、人じゃない気持ちになることが多い。毛の色もそうだけれど、顔立ちも平凡なものではなく端正そのもの。まるで海外の名作石膏のような、どこか尊い、敬いたくなるなにかを感じるのだ。『いつの時代の人かわからないけれど。良いお家柄のお育ちだったのかな』、ふと舞はそう思うことが多くなった。


 父がノンフレーバーの紅茶を持ってきてくれる。

 先ほどは不機嫌そうな顔つきだったが、もういつもの優しいパパの顔に戻っていた。


「すまない。舞。娘だからつい、お父さんはこれが正しいと思っていて間違いがないから、舞にも良い思いをさせてあげられると思ってしまったな」


 舞もそっと笑みを浮かべ、首を振る。


「ううん。そうしてお父さんが、私を全力で守ってここまで育ててくれたんだよ」

「お詫びだよ。オレンジティーも煎れた。一度、優大君の提案も試してみよう」


 ノンフレバーティーとフレーバーティーが並べられた。


「昨日の試作、お父さんも残りをもらっているから持ってくる」

そんな父娘のやりとりにも、カラク様はそっと微笑んで見ているだけだった。舞には見えているのに、こうして人と話している時には不思議と存在感がなくなる。

「オレンジの香りがあるないで、喧嘩しているのですか」

「私と父が、ではないです。パン職人の彼と父が、だったんです。でも彼が、オレンジティーに合わせて食べたくなったのはこれと思いついて試作してきたので」


 一足先に舞は、ティーカップにノンフレーバーのセイロン茶を入れる。


「どれ。試してみましょうか」


 カラク様と残りのガトーショコラを小さく抓んで一口頬張る。


「まずノンフレーバーから」


 舞がティーカップを手に取ると、彼の手元にも同じカップが出現する。一緒に口元まで運びすする、ガトーショコラとノンフレバーティーのマリアージュを確かめてみる。


「ん? これは香りがないお茶だと舞は言いましたが、いつものオレンジの香り。オレンジティーを味わっているのと変わりませんよ」

「焼き菓子の中にオレンジピールが入っているからですよ。こうして、ピールを噛みしめたときに皮から鮮烈な香りが口の中に広がるんです。オレンジティーはお湯で香りがたつので、紅茶に移っているんですよね。でも香りのないお茶を口に含んでオレンジの香りがしているのは、菓子からのオレンジでカラク様の口の中で香りが立ったということになります」


「オレンジティーも試してみましょう」


 カラク様がわくわくした顔をしていた。今日はいままでと違い、お茶が二種類あるから飲み比べができて楽しいようだった。今度は、優大が主張するオレンジ×オレンジの芳醇コースを試してみる。


 ガトーショコラを頬張り――。

「ん!!」

 舞は驚きで口元を覆って、目を見開く。正面にいるカラク様も既に同じ表情をみせていた。


 いや、もう彼は『舞、舞、もう一度、もう一口、早く食べて、食べてください!』と、テーブルに身を乗り出して、舞に迫ってくる。


 そこへ父が戻ってきた。ラップに包んでいる優大のオレンジ・ガトーショコラを片手に。


「お父さん! 早く食べて! オレンジティーと一緒に!」

「な、なんなんだ。舞。そんな急かさないでくれ」


 まだのんびりしている父が、カラク様の隣の椅子になにも知らないで座った。ゆっくりと自分のカップにオレンジティーを注いで、ラップに包まれているガトーショコラを頬張り、同じようにお茶を。


 父の顔色が変わった。味わって食べようとしていた頬が止まり、信じられないとばかりに手に持っているガトーショコラを見つめている。


 カラク様もそんな父をじっと窺っていて、もう舞を急かさない。

 父がもう一度、ショコラを頬張り、もう一度オレンジティー。今度はお茶とガトーショコラを交互に見つめて唸り始める。


 カラク様が父の顔を覗き込み確かめると、舞へと目線を向けて笑顔を見せる。


「舞、美味しかったね。いままでのオレンジティーだけの時より、ずっとずっと美味しかった。凄いオレンジの香りがしましたよ」


 父がいるのでどう答えて良いかわからないから、舞はそっとうなずきだけ返した。

 やっと父が正気に戻ったのか、でも脱力したようにテーブルへとショコラを置いてうつむいている。


「お父さん?」

「舞、やはりお父さんは歳を取ったんだな」

「なんでそんなこと言うの」


 バリスタエプロン姿の父がため息をついて、額を抱えまたうなだれている。


「長年の経験から、こんなパターンはダメだという持論に縛られていたということだよ」

「美味しかったの? この組み合わせ」


 父はすぐには返答をしてくれなかった。まだ疑わしそうにして、優大のオレンジ・ガトーショコラを眺めている。


「しかしな。コストを度外視しているからだ。だからバランス以上の贅沢感が出ているんだ。やっぱりダメだ」

「美味しかったんじゃん。オレンジティーと合っていたよ。お互いのオレンジ上乗せ相乗効果で、すっごいオレンジの香りに包まれる感触だったよ」


 それでも父は顔をしかめ、唸っている。


「そうなんだが。いやいや、オレンジピールの使いすぎだ。グランマルニエは大人にしか勧められない。運転する方にも勧められない。他の素材もきっと予算以上に計って作っているはずだ」


 さらに白髪交じりの頭をくしゃくしゃと手で混ぜて、父はまだうんうん悶えている。


「あー、なんで試しちゃったかなー。あー、これ美味いじゃないかー。あー、売りたい!」


 娘しかいないからなのか、いつも余裕の父がもだもだと迷っている姿を、あからさまに見せたから、舞もぎょっとする。


「売りたくなったの? これを」


 ついには、腕を組んで父はうつむき、黙り込んでしまった。


 その間も、カラク様は美味しそうにオレンジ・ガトーショコラを味わって満足げに、羊の丘を遠く見つめている。黙ってそっとしていると、父がさっと顔を上げた。


「売る」


 えーー! 本気なの!? また舞は仰天する。

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