第18話


 ガチャリと扉の開く音に、咲は驚いて顔を上げた。

 辺りには紙が散乱していて、窓から見える景色はすっかり暗くなっている。


 「うそ、もう20時…?」


 一体何時間描き続けていたのだろう。

 無心で描き続けていたせいで、夜ご飯はもちろん昼ごはんすら食べていない。


 頼まれた天文部のポスターは、これほど時間を掛けたのに完成していなかった。


 リビングには、没になった下書きが散乱している。

 酷く散らかったリビングの惨状に、仕事帰りのルナは驚いたような声をあげていた。


 「わ、紙だらけ…咲、絵描いてたの?」

 「うん、天文部のポスター頼まれて…」

 「そいつ見る目あるね。私でも咲に頼むよ」


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、ルナが勢いよく飲み込んでいく。


 よほど喉が乾いていたのか、ミニペットボトルはあっという間に空になってしまった。


 空っぽになったペットボトルをバリバリと小さく折り曲げながら、ルナは興味深そうに床に落ちている紙を一枚拾った。


 「どんな感じにするの?」

 「決まってないの」

 「こんなに沢山下絵があるのに?」

 「適当に、思いついたのを書き殴っただけ…それじゃ全然ダメだよ」


 席から立ち上がって、机の上に散乱した紙を、一枚ずつ片付け始める。

 何とか捻り出して描いた絵も、どれも納得できない。

 

 心が躍り出さないのだ。


 何もワクワクせず、ただ作業のように誰かから好かれようと必死に媚びた絵しか描けない。


 平均的でしかない絵は、きっと見る人が見れば簡単に薄っぺらいものだと見抜かれてしまうだろう。


 ぽつりと、自身を卑下する言葉がこぼれ落ちる。


 「やっぱり、向いてないのかな…」

 「何でそんなに卑屈なの?」


 いつもおちゃらけた雰囲気の彼女にしては、低い声色。

 

 珍しく、真剣な顔をしていて、咲の言葉に不快感を示しているのが見てわかった。


 「そんなに絵が上手で。顔も可愛いし、声だって綺麗なのに。どうしてそんなに必死になって自分のこと嫌いになろうとしてるの」

 「それは……」

 「演技だって上手なのに」


 ピタリと、その場で動きを止める。

 必死に思考を整理しながら、辛うじて言葉を吐き出した。


 「ルナも、知ってたの…?」

 「なにが」

 「私が、子役だって…笹原ナナだって」


 咲の言葉に、ルナは何を当然のことをと言わんばかりに、呆れた表情を浮かべていた。


 何故と、沢山の疑問符が脳内に浮かび始める。

 

 もう、引退して8年近く経つのに。

 名前だって、違うのに。


 「見りゃ分かるよ?咲、あの頃と顔立ちそんなに変わってないし」

 「でも、名前だって違う…それに、周りの人には気付かれてないし…」

 「皆んな、黙ってくれてるんだよ。引退したのに、わざわざ指摘するのも野暮だって」


 美井とリリ奈も、気づいていたのだろうか。

 知っていたのに、咲のために黙っていたのか。

 

 中学から一緒の美井に至っては、咲が急遽引退したがために代役を引き受けた、五十鈴南を応援している。

 

 過去の映像を遡っていれば、咲の子役時代の映像を目にしていたとしても、何も不思議な話ではない。


 「咲は肯定感が低過ぎなんだよ」

 「だって、子役から逃げ出して……絵の道も、ダメかもしれなくて、こんなので自信なんてどうやって持てばいいの?私はルナと違って選ばれた人間じゃなかったの」


 感情的になって吐き出せば、ルナがそっと咲の両頬を掴み込んできた。


 そのまま、グッと顔を上に上げさせられる。


 真剣な彼女の瞳と対峙して、グッと下唇を噛み締めた。


 本当に、綺麗な人だ。


 「選ばれた人間って何?見た目とか、能力でしか咲は人を見てないの?」


 何も返す言葉がなかった。

 ルナの言っていることは正しくて、言い訳の言葉なんて何も出てきやしない。


 「少なくとも咲の周りの人たちは、咲のバカ真面目で要領悪いけど努力家で…前向きなところが好きなんだよ。それを否定したら、咲を好きだと思ってくれてる人に失礼でしょ」

 「……ッ」


 どうして、そんな言葉を吐いてくるのだ。


 長年、咲が誰かに言って欲しくて堪らなかった言葉を、いとも簡単に与えてくれる。


 咲の蟠りを、解こうとしてくれる。


 ジワジワと、瞳の奥底から涙が込み上げ始める。


 それを見て、ルナは頬を掴んでいた手をパッと離してしまった。


 「ごめん、力強かった?」


 普段自由人で、少し我儘で。

 子供っぽくて、天然のくせに。


 どうしてこういう時だけ、察しがいいのだ。

 泣く理由を、作ろうとしてくれるのだ。


 「そんなに真面目に生きなくていいんだよ、苦しくなっちゃう。そもそも、咲要領悪いじゃん」

 「え……」

 「要領悪い人が詰め込み過ぎたら爆発するのは当たり前じゃない?咲が小さい頃から完璧を求められたせいで、バカ真面目なのは分かるけど」


 要領の悪いくせにバカ真面目で。

 不器用で、頭でっかち。

 そのくせに、完璧を求めようとしてきたけど、本当はずっと苦しくて堪らなかった。


 一度でも瞬きしてしまえば、涙が頬を伝ってしまいそうで、必死に堪えていた。


 「逃げて良いじゃん。遠回りしたおかげで、得られるものもあるかもしれないよ?」

 「でも……いいのかな」

 「いいんだよ。てかストレスと貧乳って、結構関係あるらしいよ」


 咄嗟に、胸元を押さえる。

 下着を付けていても、あまり膨らみが感じられない咲の胸。


 ストレスが原因しているのであれば、咲が貧乳な理由は間違いなくそれだろう。


 「そうなの…?」

 「だから、咲はストレスを感じない努力した方がいいよ。赤ちゃんの頃から頑張り続けたんだから、ちょっとのんびりしてもいいんじゃない?」


 キッチンに一度入ってから、再び戻ってきたルナの手には、リンゴジュースの缶が二つ握られていた。

 

 可愛らしい熊のパッケージと共に、蜂蜜入りと描かれたジュース。

 

 「とりあえず、ジュース飲みなよ」


 受け取れば、長時間冷やされていたおかげで手のひらがヒンヤリと冷たくなる。


 きっと彼女は、たいしたことを言ったつもりはないのだろう。


 思ったままに、言葉を並べただけ。


 だからこそ、余計に咲の心を軽くしてくれるのだ。

 本心をありのままに言った、嘘偽りない言葉だと分かるからこそ、ルナに心を絆されてしまいそうになる。


 少し休んでいいと、言ってもらえたのが。

 不器用なところも、咲の良さだと認めてもらえたのが。

 

 それが咲だと、肯定してもらえたのが酷く嬉しかったのだ。


 ソファに腰を掛けながら、二人で並んでリンゴジュースを飲む。

 僅かに果肉も入っているようで、ルナが好んで飲んでいる訳が少しわかったような気がした。


 「ありがとう…」

 「いいって。咲いつも豆乳ばっか飲んでるから、たまにはリンゴジュースとか飲んだ方がいいよ」


 ジュースのことじゃないというのに。

 気を遣ったのか、はたまた天然だから勘違いをしたのか。


 尋ねれば、きっと太陽のようにキラキラとした笑みを向けてくれるのだろう。

 

 ルックスはもちろん。

 内面が誰よりも輝いているこの子は、本当に魅力で溢れているのだ。


 「ルナの絵だったら、描けるんだけどな…」


 美術室に置いてある、描きかけのルナの絵を思い出す。

 油絵具で描いているもので、天文部のポスターを頼まれる前は夢中になって描いていた。


 どうしてか、ルナの絵であれば自然とワクワクした気持ちで描くことが出来るのだ。


 「じゃあ、私の絵描けばいいじゃん」

 「ルナの絵……?

 「コンテストでもないんだから、好きな絵を自由に描けばいいんじゃないの?」

 「けど、いいのかな…?」

 

 天文部のポスターなのだから、正座や天体観測をしている人々を描くのが最適だと思っていた。


 それを咲の私欲で、人気モデルを描いてもいいのだろうか。


 不安そうな咲に対して、ルナは自信満々に言葉を溢していた。


 「私のために。私を想って描いてよ」

 

 釣られるように、笑みを浮かべてしまう。

 どうして、ルナがそばに居るだけでこんなに心強くて、心が軽くなるのだろう。


 今なら描けるかもしれない。

 好きなものを自由に描いていいのであれば。


 誰かから認められる絵じゃなくて。

 みんなが納得する絵じゃなくて。

 

 咲が描きたい絵でいいのであれば、自然と筆が進むような気がしてならないのだ。

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