女子高生推理作家がもう一杯のコーヒーを味わう事情
それは小田原へ帰ろうと東海道線に乗るため、大船駅の東口にちょうどたどり着いた時のことだった。
「あら。夏乃ちゃんじゃない」
聞き覚えのある透き通るような声があたしの耳へ入ってくる。ついさっきまで一緒にいた愛花ちゃんの声とそっくりながらも、それより少しだけ上品で落ち着きのある声。姉の千尋さんだ。
今日は悠斗と打ち合わせで大船へ来たはずなのに、愛花ちゃんに電話で呼び出され、今度は千尋さんとばったり会ってしまう。この後御咲ちゃんと出会ってしまったら、もはやフルコンボ成立になってしまうけど、さすがに夜ももう十九時半。そろそろ本気で小田原に帰りたいところだ。
などと思いつつも、結局千尋さんの甘い顔に誘われ、夕方まで悠斗と一緒にいた駅前の喫茶店へと入った。その頃の客層はほぼビジネスマンといった具合だったが、この時間となるとどちらかといえば学生の方が多く感じる。ちょうど千尋さんと同じ年くらいの大学生だろうか。高校生が来るにしてはやや遅い時間なのかもしれない。……うん、あたしは現役バリバリの女子高生のはずなんだけどね。
「今日は、愛花ちゃんの家に用事があったんですか?」
ホットのブレンドコーヒーが注がれたカップを手にして、あたしはそう尋ねる。普段千尋さんは音大の近くで一人暮らししているはずだけど、この時間に大船へいるということは、愛花ちゃんの家、つまりは千尋さんの実家に何かの用事があったということだろう。
「うん。ちょっとお仕事の相談にね。ドラマ出演のオファーが突然来ちゃったから」
「え? 千尋さんのところにドラマ出演のオファー???」
千尋さんは、以前はアイドルだったのと同時に、稀にドラマ出演することもあった。もっとも妹の愛花ちゃんのように主役を演じていたわけでもなく、どちらかというとちょい役ばかり。だけど音大へ通うと決めた後はアイドルも女優も休業している。もっとも完全に引退という話でもないのでオファーが来るのも理解できなくもないけど、それにしてもなぜ千尋さんのところへわざわざオファーが?という点で疑問も残った。
「夏乃ちゃんは、天保火蝶って推理作家は知ってるよね?」
が、唐突にその名前を出されて一瞬どきっとする。
「え、ええ。まぁ……そこそこには……?」
「その作家さんのドラマの続きを、今度はスペシャルドラマで作られるみたいな話があるらしくてね」
「は!?? あたし、そんな話何も聞いてないですよ!???」
待って。本当に何も聞いてないのだけど。
「まぁ実際は作られるかどうかも微妙らしいから、何も関係ない夏乃ちゃんは聞いてなくて当然だと思うけどな」
「…………」
うん、まぁそうなんだけど……いやいや、それはやっぱし何かおかしい。
「だけどさ、去年放映された最終話の続きを作るとしたら、そのお話のキーマンは私が演じてた役の女の子なんだけど、私は女優を休業中だし、そもそも私だけじゃなくて主演を演じていた女優も休業してるしね。にっちもさっちも行かないらしいのよ」
「主演は確か、春日瑠海さんでしたよね?」
「そうなの。あの国民的女優の代わりとなると、なかなか代役も見つからないらしくてね」
そりゃそうだ。国民的女優春日瑠海は、あたしが書いたドラマの出演を最後に女優を休業したわけだから、代わりの役者さんに求められる演技力が相当高くなってしまうのは容易に想像がつく。むしろ引き受けてしまった方が気の毒とも言えるかもしれない。
「それにね。話のきっかけも微妙らしいの。原作者である天保火蝶さんが次回作を執筆中らしくて、それに合わせて企画されたスペシャルドラマらしいのだけど、出版社の担当編集に言わせると執筆がいつ終わるのか、全くわからない状態らしいのよ」
「…………」
つまり、あたしってそんなにも廣川さんから信用されてないんだね。
……ま、仕方ないか。
「ねぇ、夏乃ちゃん?」
「は、はい。何でしょう???」
「なんで天保火蝶は、雪乃ちゃんを殺しちゃったのかな?」
そして唐突にこんな話題を振られ、あたしは返す顔を一瞬見失う。
「ほら、先日夏乃ちゃんと私が演じた雪乃ちゃんの話をした後、気になってあの続編をもう一度読み返してみたんだ。今出ている最新刊の中で、雪乃ちゃん殺されちゃうじゃない?」
「あ、はい。雪の中で、無差別殺人犯に……」
「だってそれまではさ、苗字も存在しないただのクラスメイトだったはずなのに、最新刊で急にクローズアップされちゃうんだよ? そこから主人公の目つきが豹変して、復讐する鬼のような推理力で犯人を追い詰めていくの。私それ読んでて、いつも飄々としている天保火蝶らしくないみたいな、そんなのを感じ取っちゃったんだよね」
さらっとした笑みを溢しつつ、読者の感想を聞かせてくる。ただそれは書き手からしてみたらあまりにも鋭すぎるツッコミでもあった。
「多分ですけど……醜い彼女が、本当に嫌いだったんだと思います」
そんな彼女に対し、作者は無意識のうちにこんな風に返していた。
「そっか。やっぱし天保火蝶は雪乃ちゃんのこと、嫌いだったんだね」
「本当に好きだったら、苗字くらい与えていたんじゃないかなって……」
「……そっか」
そして、その役を精一杯演じた役者の方は、暗い瞳を落としていた。
「千尋さん……?」
「んー、何でもない。ただ、もしそれが本当なら、少しショックだっただけ」
「ショック?」
「だって、私としては本当に出番の少ないちょい役だったけど、やっぱり雪乃ちゃんのことが大好きだったから。いかにも人間臭くて、泥臭くて……でもそんなひたむきな一生懸命さが大好きだったな」
「そこまで言うほど、一生懸命だったでしょうか?」
「多分、雪乃ちゃんを書いてる天保火蝶自身も気づいてないんじゃないかな。他のキャラクターと違って、最も自然体で描かれてるから。それが作品の流れとは全然関係ない場所で輝いて見えちゃったりするんだよね。ずる賢い計算とか全くなくて、だからこそ一途で美しい女の子だなって」
確かに、思いもよらぬ反応だった。書き手であるあたし自身が、何一つ意識せずに描いていたから。そこに計算などあるはずもない。だってそれは素のあたし、そのものだったからだ。
「ねぇ。夏乃ちゃんは本当に、雪乃ちゃんのこと嫌いだったの?」
「あたしは……」
「自分の醜い部分って、目を覆いたくなる部分って、そんなに怖いかな?」
「…………」
飲み込まれそうになる。当然、逃げ出したくなる。
負の連鎖が大きな波になり襲いかかってきて、思わず足をすくめてしまう。
その質問にどこか違和感を覚えたが、ただしいつの間にか消えてしまっていた。
「でもやっぱり、逃げてばかりじゃダメだと思うんだよね」
「え……?」
そこへ一筋の光のように、千尋さんは優しい手を差し伸べてきた。
「天保火蝶が推理小説を書けなくなってたとしても、それでも彼女の小説を待ってる人は確かにいるってこと。夏乃ちゃんにだって、ちゃんと聴こえてこないかな? ステージの上に降り注ぐ、精一杯の声援がさ」
あたしはふと、先日のライブのことを思い出していた。
ライブ会場にはおよそ御咲ちゃんと愛花ちゃんのファンしかいない、完全アウェーのステージの上で、あたしは一人で歌っていた。いつも側にいるはずの御咲ちゃんと愛花ちゃんはその時ばかりはいなくて、あたしは本当に怖くなかったのだろうか。どっちかというと開き直っていたあたしは、何一つ恐れるものなどなく、自然体のままで歌えていた気がする。
そんなあたしが雪乃を嫌いになったのはいつからだろう? ……いや、考える必要さえなく、間違えなくドラマの撮影現場へ取材に行ったあの日からだ。無知だった自分を思い知り、そこで出逢ってしまった雪乃と会話をしてしまったから。自分自身と向き合うことが本当に怖くなって、あたしはそんな自分を殺すことを選択してしまった。
「それでね。私は私で、そんな雪乃ちゃんを演じるのが大好きだったりするの」
「え……?」
どこかで聞き覚えのある……いや、あの日撮影現場で確かに聞いた台詞を、あたしはもう一度耳にしたんだ。
「次にあのドラマの続編が作られるとしたら、雪乃ちゃんは間違えなく殺されてしまうんだけどさ」
「…………」
「だけど、雪乃ちゃんは他の人にはやっぱり演じてほしくないなって」
「そうなんですか……?」
「だってさ。私が演じなかったら、代わりに雪乃ちゃんを演じるのは愛花だって案が出てるらしいんだよ? いくら私の妹とは言え、それはさすがに雪乃ちゃんのイメージと違うし、夏乃ちゃんだって絶対に嫌でしょ?」
「うん。絶対に嫌ですね、それはさすがに」
あたしを愛花ちゃんが演じる……? どういう悪い冗談だろう。
と思ったけど、それと似たようなことを御咲ちゃんは経験しているんだったっけ。悠斗が書いたお話の中で、御咲ちゃんを愛花ちゃんが演じ、愛花ちゃんを御咲ちゃんが演じる。完全に御愁傷様としか言いようがない。
「だからさ。私も天保火蝶のこと、ちゃんと応援してるから」
「…………」
「それに夏乃ちゃんだって、悠斗くんに夏乃ちゃんのお話を聞かせてあげたいんじゃないかな?」
「え、あたし???」
「夏乃ちゃんの、素直で正直な気持ち。確かに不器用ではあるけど、真っ直ぐな気持ちとちゃんと向き合えば、あの鈍感な悠斗くんにも伝わると思うよ?」
「って、あたしは別にそんな……」
「まぁ競合相手があの御咲ちゃんと愛花だから、うまくいく保証は一ミリもないけどね」
「そしてあたしを完全に突き落とすのやめてください!!」
千尋さんの優しい笑顔は、やがて悪戯な笑みへと変化していく。
それはヤスミにも言われていること。あたしは不器用で、本当に大事な場面で逃げてばかりいる。弱い自分から目を逸らしたくて、意味もなく強がってみたりする。そうやってあたしは自分を偽り続けて、最後には自分を殺してしまった。
だからその先に、何があるというのだろう?
このまま雪乃は死んだままなのか。天川ひかりはもう推理をできないのか。
それを決めるのはあたしのはずなのに、次の大切な一歩を踏み出せないでいる。
あたしの時計の針は、まだずっと止まったままだ。
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