雨の音が喫茶店に響く事情
「御咲…………」
ふくよかな胸の膨らみが、そのまま俺の心臓の鼓動に重なってくる。そもそもなんて格好してるんだよ……。俺の脈拍は少しずつ速くなっていることに気がついた。恥ずかしいからだろうか。だがそのスピードは俺だけでなく、御咲もやはり一緒だったんだ。互いに音が共鳴しあい、木製の壁時計の針の音にすっと溶け込んでいき、やがて空気の中へと拡散していく。
「ちょっと、離してよ」
「…………」
抵抗する御咲。だがその声は弱々しく、とても本気とは思えない声だ。俺はそんな御咲を無視して、むしろ強く抱きしめた。ますます御咲の身体が萎んでいく。ああ、どうしてこんなに細くて小さな身体をしているのだろう。ステージの上ではあんなに気高くて、絶対的なプライドがファンを魅了しているというのに、俺に対してだけはどうしても無防備で、他では見ることのできない美しさがある。正直にそれを言うと御咲はやはり抵抗してくるだろうけど、だがその美しさもまた本物であることを俺は知ってるつもりだ。
「離してって言ってるでしょ……」
「ボロボロにしろと言ったのはお前だろ?」
「…………」
少しだけ顔から目を逸らすと、首から胸元の間の薄ピンク色の皮膚が、俺の視界に入ってくる。本当に無理しちゃって、だけど御咲のその姿からはプライドのかけらさえも失われていた。俺以外には見せたくないのであろう、絶対に俺だけに見せたいのであろうその肌の色は、御咲の底に眠る弱さそのものなのかもしれない。
「だって君は……」
それでも何とか抵抗しようとする御咲。どっちなんだよって叫びたくなるくらいに。
「君は、私じゃなくて、愛花のことが好きなんだろ?」
「…………」
俺は何も答えず無言のまま、そのまま御咲を抱きしめている。
「……そんなの、卑怯じゃないか?」
「…………」
その通り、卑怯かもしれない。だけどもう一ヶ月以上もそれを繰り返していた。正直今更でしかなくて、自分を責めようにも責めきれないでいる。
「好きでもないやつに、そんなに優しくするなんて……」
「とりあえず御咲は黙ってろよ」
今の回答だって、ただの逃げの言葉でしかない。だけどその覚悟はもうとっくにしていたつもりだった。御咲と付き合うと誓ったあの日から、真実の答えを導き出せないまま、今日に至っているわけだから。
「そもそも君は、なんで愛花が好きなんだ……?」
「そんなこと、もう忘れちゃったな」
これが本音なのか誤魔化しなのか、それさえも判断できていないのだから。
「でも……それでも本当に私じゃダメなのか?」
「だから御咲は黙ってろって」
御咲をもう一段強く抱きしめる。こんなの御咲の言う通り、卑怯に決まっている。言い逃れができないほどかっこ悪くて、だらしなくて、そして御咲を苦しめているわけなんだから。
これが御咲と俺が求めていた答えだと言うのか。
春の桜がピンク色の蕾をつけ始めたあの日、先に求めてきたのは御咲だ。
『私と形だけ』……そう言って御咲は、俺と約束をしてきたのだ。
その答えがこれだというのか?
御咲も、俺も、二人とも納得していない今日の日を、本当に待ち望んでいたのか?
間もなく、外から雨の音が忍び込んできた。
同時に御咲は、涙という雨を、俺の肩に落としてきたんだ。
いつだって御咲は、泣いたことなどなかったはずなのに。
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