ステージの色が変わる予感のある事情
あまりの衝撃的な出来事に、場内は完全に静まり返っている。
夏乃は愛花の頭を叩いた。しかも容赦なく、思いっきり。
ライブ本番中とは思えない状況に、観客誰もが心のやり場を見失いかけていた。
「どう? これで目が覚めたでしょ?」
「…………」
得意満面の笑みを漏らす夏乃に対し、愛花は怒っているというより、困惑の表情を浮かべている。もちろん愛花だって先程の一曲目が不甲斐ないものだったと、ちゃんと自覚してたことだろう。故に夏乃を咎めることは当然できない。
……まぁ今でも頭を押さえているし、まだ痛みは続いているようだが。
「マナを観たいと思ってここへ来てるファンのこと、さっきあんた忘れかけてたでしょ?」
「え……?」
問い詰める夏乃。だが愛花は未だに頭の整理ができてないようだ。そのじんわりとした痛みの意味も含めて。
「ここにいるのはミサのファンだけじゃない。マナのファンだって、こんなあたしのファンだってきっといるかもしれない」
「う、うん……」
「そしてファンのみんなは、マナの最高のステージを期待してるんだよ?」
「…………」
すると夏乃は前を向く。愛花の方ではなく、観客に向かって叫んだんだ。
「そうだよね、ここにいるみんな〜!!!」
ついさっきまで何が起きたのかわからないことだらけだった観客席からは、一斉に歓声が沸き起こった。『おお、そうだぞ〜』とか『がんばれ〜』とか、そういったエールがステージの上の夏乃と愛花に届けられている。さすがにこれは予定調和というやつじゃないか?とも微かに思ったのも事実だが、もちろんこんなの今日の台本に書かれてあった記憶はない。夏乃はアドリブだけでステージの立て直しを図ろうとしているようだ。
「あたしさ、ミサだけでなくて、マナのことも本当にすごいと思ってるんだよ?」
「え……」
会場の歓声が一旦収まったところで、MCを再開する夏乃。愛花はまだきょとんとしたままで、まるで心ここに在らずのような瞳を彷徨わせている。
「夏ドラマの主演決定、おめでとう〜!!」
また少しだけ、夏乃は声のボリュームを上げた。愛花の『ありがとう』という言葉を打ち消すかのように、再び歓声が沸き起こる。今日ここにいるのはわざわざライブに足を運んでくれる、『Green eyes monsters』生粋のファンだ。御咲のファンといえど、愛花のドラマ主演決定の事実は当然周知のニュースだろう。
「だってドラマの主演だよ? 主演ってことは座長ってことだよ?」
「う、うん……」
「みんなマナの演技を楽しみにして、毎週同じドラマを観るの。それって本当にすごいことだと思わない〜?」
「…………」
『思う〜!』って、主に観客席からその想いが伝わってきた。夏乃はその声を煽るように、さっきから挑発的な言葉を観客へ投げかけている。まるで愛花の一ファンであるかのように、夏乃自身もドラマの視聴者として楽しみにしているかのように、愛花へ、そして観客へ、言葉を並べていた。
「だったらさ。今ここで、もう一度その笑顔を魅せてもらえないかな?」
「うん……」
まだまだ力の弱い返事しかできない愛花。だが夏乃はさらに追い討ちをかけた。
「ここにいるみんなだって、マナのこと、もちろん応援してくれるよね〜!!?」
再びの大歓声。それはもはや、やけっぱちとも思えなくもない。
声を送るのは当然愛花のファンだけに留まらない。『深紗』という団扇を手にしたファン、『夏穂』のファンだって同じように愛花へエールを送っている。皆が一つになって『がんばれ〜』って愛花に声を掛けているんだ。おいおい、これはいったい誰のライブなんだとも思わなくもなかったが、その仕掛け人はもう一人の応援対象であるはずの夏乃であったりして、しかも一番最初のぐーでゲンコツの件に関しては、もはや誰もが忘れし過去の話になってしまっている。多分だけど。
愛花はというと、完全にノックアウト状態だった。それは体力的に? いやそんなことはもちろんない。精神的にふらふらと立ち上がりながら、その目にはうっすらと涙を浮かべている。口の動きは微かに『ごめんなさい』と言ってるように思えたが、その言葉までをマイクが拾うことはなかった。今日一番の声援を受けながら……って、まだ一曲目が終わっただけのはずだが、もう一度ステージの上のいつものポジションに立ち、自分なりにMCを再開しようとしていた。
もっとも、もはや今日の台本などあったもんじゃないのだが……。
「てかこんなところで泣かないでよぉ〜」
「ごめんカホ。そしてみんなもごめんなさい!!」
「そんなのどうだっていいから、そろそろ次の曲行くよ!」
「うんっ!」
が、さらに予定にないことをするのが夏乃の性格というやつで……
「次の曲は『君がくれたダイアリー』。マナ、一人で歌ってもらいます!」
「…………ぇ」
その何とも言えない間抜けヅラの愛花に対し、夏乃は観客に気づかれないよう小さくウインクを差し向ける。
「あたしたちの事務所の先輩、『BLUE WINGS』の名曲だよね。今のマナにはぴったりの曲でしょ?」
「あ、うん……」
そして夏乃はマイクが拾うか拾わないかの声で、こう付け加えていたんだ。
「もしこの曲でマナが失敗しても、怒られるのは間違えなくあたしの方だから」
「うん、わかった……」
そして間もなく、『君がくれたダイアリー』のイントロが流れ始めた。
夏乃は舞台袖、俺や御咲が見守る場所にはけてきて、ステージには中央に愛花一人が取り残された。台本通りでは夏乃と愛花二人で歌う予定だったのに、愛花は一人でしっかりとマイクを握りしめていた。
実はこの曲には、世間には知られていないもう一つの事情があったんだ。それはさっき夏乃が言った通りで、元々は事務所の先輩である『BLUE WINGS』が歌っていた曲。かつて『BLUE WINGS』には、愛花の姉である千尋さんが所属していたことがあった。だからこの曲、『君がくれたダイアリー』という曲も元々は姉が歌っていたこともあり、それ故、愛花が大好きな曲であることも、俺だけでなく、夏乃も知っていたということだろう。
愛花と千尋さんが実の姉妹であることは世間一般へは公表されていない。それこそ秘密の、特殊な事情でもあった。
「夏乃〜、どういうつもりだ?」
「すみません有理紗先生。あたしやっちゃいました!」
言葉とは裏腹に全然詫びる様子さえもない夏乃。まさにしてやったりの自慢顔だ。
「でも本当に、あの子一人を置いてきちゃって大丈夫なの?」
そう御咲は夏乃に声をかけた。そんなこと聞かなくてもわかってるくせに。
「大丈夫だよ。もうさっきみたいなことは繰り返さないはず」
「ああ。あいつの一番好きな曲を、あいつが歌い間違えるはずもないしな」
「なんだかんだとお姉ちゃん子だもんねぇ〜」
有理紗先生と夏乃がそう言いながら見守る中、愛花が歌うAメロがスピーカーから響いてくる。さっきまでの泣き顔はどこへ行ったのだろう。堂々とした落ち着いた歌声で、俺や御咲を安心させるのに十分すぎるほどの響きを持っていた。
いや、むしろあいつ……。
「あいつ、今度こそ完璧に空気を読みやがった。いい意味でな」
その歌声の異変はやはり俺の勘違いではなく、歌のプロでもある有理紗先生も同じ感想を抱いていたようだ。屋外ステージの澄み切った青空の下、きらきらと輝く歌声が、爽やかな春の風を貫くように突き抜けていく。屋外ならではの温かさが、会場全体へと響き渡っていた。
涙の直後のステージは、やがて伝説のステージへと変貌していたんだ。
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