14-5.

 ジェーンは、顔を下に向けて思案するヴィクターの姿を見詰めていた。彼の表情は真剣そのもの。深海で唸り上げる渦のような思考の果てに、彼は一体何を導き出すのか。その渦は光をも離さない深淵となるかも知れない……。


 そう思った時、ジェーンはクスクスと可愛らしい笑い声を上げた。訝し気に顔を上げたヴィクターと目が合うと、彼女はいっそ妖艶に唇を歪めて、

「アナタにしては随分と杜撰な推理ではなくて、ヴィクター? ワタシを疑うのはいいけれど、確固たる証拠なんて何もないのでしょう。だから、今になって何事かと悩み始めている……。それなのに、ワタシに詰め寄って来るなんて――、一体、アナタは何をそんなに慌てているの……?」


 答えなど出る筈がない。謎や疑問ばかりで、解答に辿り着く為の材料など何一つとして手に入れられていないのだから。ジェーンはその事に、ヴィクターが「消去法に近い」と言った時点で既に気付いていた。いつも通りの聡明な彼なら、もっと利口なアプローチを仕掛けてくる筈だ。こちらが何も言い返せないような巧みなロジックを組み立ててくる筈だ。なのに、口にしたのが「消去法」? ……堪え切れない落胆は溜め息に成り果てた。


 だから、ジェーンは気付いた。ヴィクターはむしろここへ手掛かりを得るためにやって来たのだと。

 だが、彼女はその手に握るモノを誰にも渡すつもりはなかった。


「…………」

 ヴィクターはジェーンの言葉を聞き、思わず押し黙った。慌てている――、まさしく図星と言うより他なかった。そして、彼自身にそんな自覚はなく、ジェーンの言葉を聞いて初めて自分の中の焦燥を思い知った。

 確かにボクの動きは性急だと言わざるを得ない……。ヴィクターは息を吐き、自分に「落ち着け」と言い聞かせた。


 ヴィクターはジェーンが「あの日」の事件を企てた黒幕だという可能性を考えた。心ではその考えをバカバカしいと思いながらも、脳の内では可能性を捨て切れないでいた。ジョンから「あの日」を話を聞いてから、およそ半年以上もの間、ヴィクターは頭の中に湧いた可能性について一人悩み続けた。

 ジェーンが黒幕だと、仲間達は誰も考えないだろう……。彼らはそういう人間だ。だが、自分は違う。例え非道と言われても、現実を優先出来るのが自分だ。だから、ここへ来た。挑むように、ヴィクターはジェーンの下へやって来た。けれど――、


「何をそんなに慌てているの?」ジェーンが繰り返しそう言った。「慌てなきゃいけない事情が、アナタにはあるの?」

「…………」

 ヴィクターは彼女の言葉を受け、くっと歯を噛んだ。疚しい事情なら心当たりなんて腐る程にある。まるで自分の胸の内を透視したかのような彼女の物言いに、ヴィクターはいつの間にか背中にびっしょりと汗を掻いていた。


「ねえ、ヴィクター……?」

 ジェーンから頬へそっと手を伸ばされ、その手の冷たさにヴィクターは思わず息を呑んだ。


 誰だ。目の前にいるのは、一体誰だ。ヴィクターの脳裏にそんな言葉が過ぎった途端、彼は目の前にいる女の姿が分からなくなった。

 湧き出る得体の知れない黒い獣。獅子、あるいは龍のような……。ヒトの形を破り、膨れ上がった獣性が牙を剥く。現実にはあり得ない姿を視るなど、彼の人生に於いてそんな経験は今までになかった事だ。理解出来ない姿を幻視し、ヴィクターは我が目を疑った。


「……ボクはいつも通りさ」

 普段と違うと言うのなら、それは君の方だ――。ヴィクターの苦し紛れの反論は、ジェーンの無邪気な一笑で伏せられた。

「ワタシの『普段』だなんて、アナタは知っているの?」

 どういう意味だと、ヴィクターは思った。ジェーンとの付き合いは長い。数えてしまえば十年にも満たない時間だが、それでも彼女という人間性を理解出来ていると自負していた。だが、それは果たして本当に? 深淵から首をもたげるそんな問いが、ヴィクターの意識を支配していく。


 奪われる、まるで魅了されるように。盗まれる、まるで毒されるように。除かれる、まるで解かされるように。まるで霧の中にいる誰かから呼び掛けられたように、目の前にいる筈の女の姿が分からなくなる。


「……質問に答えてくれよ、ジェーン」

 ヴィクターの声には疲弊が混じっていた。ジェーンはそれを聞き逃さず、その疲弊の訳をいっそ楽しむように、しかし、口元の笑みを隠そうとマスクを顔に当てた。数度呼吸を繰り返してから、

「ワタシは――――、誰も裏切っていないわ」


 裏切るとは、誰かから受けた信頼を故意に捨てたという意味だ。


 ワタシは果たして、誰かから信じて貰えていたのかな。「カタチ」をはみ出ないと思い込まれていただけじゃないのかな。信頼だなんて――、それこそ、背中を預け合うジョンとジャネットのように……。羨んで止まない二人の姿を想い、ジェーンは切なそうに溜め息をついた。


「では『あの日』、キミはただの被害者だったと?」

「そうよ――、そうね。ワタシは……あの時、何も出来なかった」

 何も手にしていない、何も持っていないあの時のワタシに何かを成し得る事が出来る筈もなかった。傷付くばかり、文字通り失うだけの犠牲しか払えない無力な自分が、凍り付きそうなくらいに憎かった。

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