6-1.

 ジョンは重い体を引き摺って、昨夜自分が魔人に襲われた場所に向かっていた。


 彼は昨夜の出来事を明瞭ではないものの、いくらか思い出していた。彼が朦朧もうろうとなっている間に魔人と応戦したジャネットの背中と、彼女と魔人が交わす言葉、メアリーの叫び声と、人形が口にする無機質な声、そしてジャックという少年の怒り。

 思い出したくはない。その声全てが自分を責めるようで、頭の中でガンガンと鳴り響くからだ。けれどメアリーをこのままにしておける筈がない。なんとしてでも、彼女を救わなければならない。ジョンは強く歯を噛みながら歩き続け、やがて目的地に辿り着いた。


 しかし、その場に着いてもジョンの頭痛は止まらず、更には「こんな所に来てどうするのか」、「ホワイトチャペルを目指した方がいいのではないか」と自身の行動を疑問視する声がひっきりなしに飛び交い、何一つ集中出来ぬまま、ただその場を右往左往しているだけの時間が続いた。ムダに消費するだけの時間が余計に彼を焦らせ、結局何も手に出来なかった。


 くそっ、イライラする――煙草だ、煙草を吸おう。ジョンは立ち止まり、煙草を懐から取り出し、火を点けて吸い始めた。

 紫煙を吐き出し、目を閉じてその場に座り込んだ、その時だった。

 昨夜も同じような格好をして、悪魔に殴り飛ばされた。そこで確か、何か違和感を持ったような――、

 ジョンは目を見開き、煙草を摘む右手の、その手首を見た。そこにある傷を見詰めた。昨夜は――そうだ、魔人に火を求められ、それに応える際にこの傷から出血しているのを見た。


「あ――」連鎖的に記憶が蘇る。ジャンヌと共に食事をした際に近付いて来たメイドを。「そうだ、あの『人形』……!」

 ジョンは思わず跳び上がり、そして走り出した。


 休みなく路地を駆け抜け、ジョンはあっという間にジャンヌと食事をした場所に辿り着く。そこは大きな交差点で、新聞や軽食を販売する店舗も多く、活気に溢れていた。人や馬車、自動車が行き交う中、ジョンは件の軽食屋の店主を見付け、彼に近付いた。


「お、ジョニー坊や! この前は大変だったなあ!」

 ジョンが声を掛けるより早く、店主は手を上げた。彼はなにやら機嫌がすこぶる良さそうで、見れば、「聖女」ジャンヌ・ダルクが食したという旨の書かれた広告をデカデカと掲げたワゴンの前には、たくさんの客がいた。ジョンは彼の店がこんなにも繁盛している様を初めて見た。そしてジャンヌの広告効果のすさまじさに、仏頂面で閉口した。

「見てくれよ! お前のお陰で大儲けさあ!」

 快活に笑って、ジョンの肩を叩く店主。ジョンは「はあ」と生返事をして、

「それは僕じゃなくて、ジャンヌのお陰だろう。

 ――それはともかく、あんた、いつもこの辺りで商売しているだろ。あの『人形』の持ち主について心当たりはないか?」

 店主はジョンの言葉にキョトンとした顔をして、やがて思案顔になった。

「確かあの『人形』はいつも……、ああ、あの角の家だな」


 赤レンガのファサードが並ぶ、倫敦ロンドンの町並み。店主が指差した方にあるのは、ジョンの身近にある何気ない風景の一つ。その中に、悪魔が潜んでいたと言うのか。

 ジョンは店主に礼を言い、彼が示した家に向かう。


 ノッカーを叩き、ジョンは家主を待つ。警戒の中、彼は左手に巻くロザリオを拳で握り、右手に指輪を嵌めているのを目視で確認した。

「はい……、どちら様で?」

 家の中から出て来たのは、白髪混じりの黒髪をした初老の男だった。品のいいシャツとパンツから、相応の収入があると見えた。

「突然の訪問、申し訳ありません。貴方の『人形』について、いくつか質問があります」

「え、それは――まさか君か! わたしのハリエットを奪ったのは!」

 あのメイドはハリエットという名だったらしい。男の見た目から想像し難いほど強く肩を掴まれながらも、ジョンは冷静だった。


 彼が「人形」を悪魔に渡したのなら、彼もまた同じ魔人であるかも知れない。そう考えていたジョンは自分の手首を見る。しかし、そこに流血の兆候は見られない。目の前の彼が、悪魔である可能性はなさそうだ。


「ええ、そうです」

 平然と頷くジョンを見て、男はいっそ怒鳴るように、

「返せ! わたしのハリエット!」

 ジョンは声を上げる彼の様子から、彼は「人形」に悪魔が憑いていることを知らなかったのでは――と、思い始めていた。

「彼女は無事ですよ。用が済めば、無事に帰します」ジョンは掴み掛かる男を制して、努めて落ち着いた声を出した。「彼女には悪魔が取り憑いていました。彼女がすぐそこの交差点で何をしたのか、聞いていないのですか?」

「な――に、いやしかし、そんなバカな話が……」

 男は露骨に狼狽えた。あの「人形」が起こした騒ぎは耳にしていたのだろう。


「申し遅れましたが、僕は探偵です。名前は……ジョン・シャーロック・ホームズです」

 名乗るのを躊躇ためらってしまったし、声だって小さかった。ジョンは意気地のない自分に向けて、胸の中で舌打ちした。

「ホームズ? まさか、あのホームズか?」

 それでも男の耳にはしっかりと届いていた。小さく呻き声を上げ、ジョンは仕方なさそうに頷いた。

「聖ジャンヌを襲ったというのは、本当なのか?」

 男の問いに、ジョンは頷く。男は額に手を当て、「なんてことだ……」と呟いて天井を仰いだ。


「貴方は彼女をどこで――失礼、入手、もしくは加工したのですか?」

 男は、ジョンの選んだ言葉に少し顔をしかめたが、

「ハリエットは私の娘だ。妻とあの子が相次いで先に逝ってしまったから、なんというか、寂しくてね……」

 男は情けなさそうに笑った。だが、彼の気持ちはジョンにも分かる。

 ホームズ達が死んだ際、ヴィクターに提案された――彼らを人形化するか否か。その提案に、ジョンもジャネットも首を振った。その選択に後悔はないが、ヴィクターが提示したそれに縋ってしまいそうになったのも確かだった。

「二人が死んで途方に暮れていた時、この家に技師がやって来た。『娘さんだけでも「人形」にして、傍に置いておくのはどうか』と」

「その技師はどんな人物でしたか?」

 知らず、ジョンの目付きが鋭くなる。

「白髪の男だった。右目にモノクルを掛けていて、理知的な男に見えたよ。言葉遣いも丁寧で、私はすぐに信頼した」

 彼に騙されたのか……。男は最後にそう呟いて、深いため息をついた。

 恐らくは彼の言う通り、遺体を「人形」へと改造した際に悪魔を仕込まれたのだろう。つまり、技師と魔人は手を組んでいる。その魔人が、昨夜ジョンが対峙したあの男か。


「彼がくれた名刺がある。持って来よう」

 そう言って、男が家の中へと戻る。なにやら棚を引っくり返すような音が続いた後、男が戻って来た。

男が差し出してきた名刺を、ジョンは受け取って見る。「人形技師 ジャス・モアティ」と名前が入っただけの簡素な物。裏返すと、そこには住所が書いてあった。

「彼女――ハリエットさんですが、今はヴィクター・フランケンシュタイン・ジュニアという男の下にいます。必要であれば、住所をお教えしますが」

「……ホームズの次は、フランケンシュタインか……。今日はなんだかすごい日だな……」

 一般人にとって、両者の姓は有名と言って余りあるほどだ。男が目を丸くするのも、無理からぬ話だった。

 ジョンはメモ帳にヴィクターの住所を書き、切り取って男に渡した。


「用が済めば、彼女は必ず貴方の下へお返しします。しかし、それまでは申し訳ありませんが、彼女が安全であることを保証する為にも、お預かりしたいと思います」

 悪魔が憑いた「人形」。その事実が警察や『教会』に露見した場合、その持ち主である男にも、なにかしろの制裁がかかるかも知れない。言葉の裏にそんな脅迫めいた文言を含みつつ、ジョンは男の様子を伺った。彼はたじろぎ、視線を宙に彷徨わせた。

 このおっさんは関係ないな……。ジョンは「なにか思い出したことがあったら」と言い、男に懐から取り出した自分の名刺を渡した。業者に作らせはしたが、使ったのは今日が初めてだった。そのことに少し感動を覚えつつ男に礼を言い、ジョンはその場を立ち去った。


 その足で技師の名刺に書かれた住所に向かう。テイムズ川に浮かぶいつまでも消えない泡を流し見ながら橋を渡り、周囲に漂う異臭に顔をしかめつつ、メモを何度も見ながら足を進める。

 ジョンは周囲の風景に見覚えがあることに気付いた。これは……、メアリーにホワイトチャペルまでの案内を頼んだ時と同じだ。やがて、レストレード達が捜査の拠点としていた教会まで見えて来た。目的地はこの少し先にある。


「…………」

 ホワイトチャペルに踏み込んで少しした時、背後から視線を感じた。ジョンは住所を確認する風を演じて立ち止まり、様子を伺う。

 視線に相変わらず「敵意」はない。しかし、こちらの動向を絶え間なく覗いていた。


 ジョンは歩みを再開させて思考する。「敵意」を持たぬままに誰かを監視することなど出来るのだろうか。「監視」の対象は、どうだろうと必ず当人にとっての「敵」に値する筈だ。そこに「敵意」を持ち込まないことは出来るのか? 仮に、そう出来る状況とはなんだろう。「敵意」を持たぬままに誰かの行動を見張る……。

 ジョンはハッと息を呑んだ。そうか、「命令」されているのか。行為の意図や理由を知らされぬまま、ただ「監視」だけを命じられている。その状況下ならば、「敵意」を持ち得ないのではないだろうか。


 思考の最中、ジョンは目的地に到着した。それは教会のすぐ裏にあった。崩れかけの廃墟で、長らく使用されていないようだった。

 ――ここで「人形」の施術を行う? なにをバカな。ジョンは首を振りつつ、傾いた扉を乱暴に蹴り開けた。

 途端に舞い上がる埃や煤に、ジョンは咳き込んだ。埃が落ちるまで待ち、一先ず内部の様子を確認することにした。……と言っても、ろくなものは残っていない。放置され、崩壊寸前の家具類が置かれた床は、地層のように体積した埃でその色すら窺えない。


 背後から刺さる視線は、ジョンが建物に入った途端に消え失せた。それがなぜかは分からない。ジョンはしかめ面のまま警戒を続け、奥へと進んだ。


 ヴィクターの部屋で見掛ける『人形技術』に必要であろう機械が、この部屋の中には何一つとして見当たらない。この部屋は技師の部屋ではなく、明らかにダミー。ハリエットの主であるあの男は騙されて――……いや、ハリエットが「人形」なのは事実だ。ならば男の元に現れた技師が偽物、若しくは技師を仲介する者か。

 住所を偽るのは、技師が違法なことをしているからだ。しかし、その証拠を掴めないのなら、ここにいる意味はない。ジョンが建て付けの悪い扉を強引に開けながら、そう思った時だった。


 最後の部屋には相変わらず埃が堆積していた。ガラスの割れた窓、天井の隅に張った大きな蜘蛛の巣、壁に描かれた「18」という文字。そしてその下にうずくまる――キャソックを着けた屍蝋化しろうかした死体。


 ホワイトチャペルの教会の神父だ――ジョンは直感的にそう思った。死体に近付いて観察すると、その一部は白骨化が進んでいた。死後数ヶ月は経過している。遺体を引っくり返すと、キャソックの背部に複数の穴があった。恐らく刃物で何度も何度も刺された痕だろう。

 ジョンは顔を上げ、壁に殴り書きされた「18」を睨む。悪魔を示す「666」。その「6」を3つ足し合わせた忌数いみかずだ。描くのに使った塗料は血……だろうか。死体を見下ろす黒いそれは、乾いた血を連想させた。


 まるで、自分達の仕業だと、悪魔が笑っているようだった。


 技師が渡した名刺に記された住所、そこに捨てられた神父の死体。「ハリエット」が問題を起こせば、やがてここに誰かが辿り着くのは明白だった。つまりは、挑発。お前達に自分を捕らえられるものかと、影がほくそ笑む。


「……ナメやがって」

 ジョンは怒りに任せて文字の書かれた壁に拳を叩き付けた、その直後だった。

 ――背筋を刺す「敵意」。ジョンが立てた物音に驚いたかのように、ほんの一瞬だけだが、明らかな敵意を外気に晒した何者かが、ジョンの背後にいた。


「…………」

 それに気付いたジョンはしかし、目付きを鋭くしたものの、何事もなかったかのように手に付いた埃を振り払った。踵を返し、神父の遺体をそのままに部屋を後にする。

 恐らくジョンを監視していた何者かが、建物へと入っていく彼を誰かに報告したのだろう。そして、その誰かがここにやって来た。それは神父の死と関係があるのだと、自ら語ったのと同義だった。


 神父の遺体を発見しただけで、結局のところ、魔人への繋がりは得られなかった。「ジャス・モアティ」なる謎の人物の名前が分かったが、しかし住所は偽物だった。その名前も、もしかしたら偽物かも知れない。なんの手掛かりも得られず、とんだ無駄足を踏まされた――その苛立ちも相まって、ジョンは肩を怒らせて屋内を進む。


 敵意の発信者が動く。ジョンの動きに合わせて常に彼の背後に回り、器用にも天井に貼り付いている。

 敵が跳ぶ――、ジョンのがら空きの背部に向けて。

 敵意の察知――、殺意の挙動。「聖痕」の拒絶が運ぶ第六感が、敵の初動を阻む。

 敵の動きに合わせて、ジョンが体を回す。空を掻いた敵の拳。驚愕の声を上げて床に着地した敵がジョンに振り返り――、それを出迎えたのはジョンの打ち落としの拳だった。

 床へと顔から叩き付けられた敵は、「ぐうっ!」と呻き声を上げた。


「お前――」

 ジョンは敵の姿を視認し、構えながら後退して距離を取る。その最中で、思わず言葉を失った。


 彼の目の前にいる敵。それは――――昨夜対峙した悪魔憑きの少年だった。

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