ヒロト34

 2020年2月2日の日曜日は、ヒロトにとって忘れることの出来ない1日になった。

 いつものようにライブが始まり、最後にメンバーみんなで、"ハート@シンデレラ"を歌い、それでライブが終わるはずだった。しかし、今日は歌い終わると、メンバーは舞台奥の幕の向こう側に次々と消えていった。

 それから支配人が出て来た。沈痛な面持ちである。


 何かあったのだろうか?バイヤーの間に緊張が広がり、会場は静まり返った。

「実はすごく残念なお知らせがあります。今日のライブを持って、サファイア麻衣が卒業することになりました」

悲鳴のようなどよめきが起こった。

「え、なに?」とか「なんで?」とかの怒号が飛び交う。

 ヒロトは何がどうなっているのか全く分からずに、呆然と立ち尽くしていた。

「麻衣さんは病気で近々入院して治療をすることになりました。私達も非常に残念ですが、ご両親からも頼まれて、渋々承諾した次第です」

「辞めないでもいいじゃん、休みにしたら」と声が上がり、同意の声が周り中から上がった。

「それはそうなのですが……。その辺りは麻衣さんが説明してくれます」

 

 麻衣が舞台袖から現れ、ステージの真ん中に立った。ちょうど3週間前のライブのオープニングの時のように。あの時の会場は祭りのように熱い空気に覆われていた。が、今は真逆で、固く張り詰めた空気に包まれていた。


「皆さん、今、支配人がおっしゃったように、今日を持って、東京テンカラットを卒業させて頂きます。いきなりになったのは、緊急で治療を始める必要があるからです。2年前に一度1週間休みを頂いたことがありますが、実はその時も病気の治療のために入院していたからでした。それが再発してしまったのです。

 私はテンカラのことが大好きです。メンバーもバイヤーの皆様もスタッフの皆さんも大好きです。テンカラは私の生活のすべてでした。だから、辞めたくはなかったし、悩んだのですが、今度は1週間では済まないので、メンバーにも運営の方々にも、そして何よりもバイヤーの皆さんに迷惑をかけることになります。それで本当に、本当に、残念ですが、今回は卒業することにしました」

「そんなの迷惑じゃないよ。いつまでも待つよ」との声が上がった。虎次郎だった。

「そうだ」とガロの声がした。いつもはいがみ合っている二人が同意したことに、また会場はどよめいた。

「そう言って頂いて、本当にありがとうございます」

深々とお辞儀した。

「でも、テンカラに未練を残したまま中途半端に治療するより、全てを整理して治療に専念して欲しいという両親の意向もあって、すごく悩みましたが、卒業させて頂く結論に達しました。しかし、引退はしません。また元気になって、別の形で皆さんの前に現れます。今回は我儘を言って、本当に申し訳ありません」

再び腰を折って、深々と頭を下げた。隣で支配人も同じように頭を下げた。

 会場は静まり返った。治療のため、両親の願い、と言われたら返す言葉はなかった。

「麻衣さんの気持ちを考慮して、今日は物販もありません。次の歌で終わりにさせて頂きます。

「えー」とまたどよめいた。

 それから、二人がもう一度深くお辞儀をすると、照明が落とされ、スポットライトの中に麻衣の姿が浮かんだ。

「これが私のテンカラでの最後の歌唱になります。私の大切な歌を聞いてください。"いつか、君とふたたび"です」

 

 ヒロトは狐につままれたような感じだった。現実感がなく、すべてが夢の中の出来事のような気がした。

 これで終わりとか信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 オフ会の時、多田さんがヒロトに言った。

「元気出しなよ。俺なんか何人も推しが辞めて、推し変ばかりしてきたよ。そんな経験を何度もしているうちに、推しの今後の幸せを祈って、快く送り出してあげるのが真のドルオタ道だと気がついたよ。

 まして、まい姐の場合は病気だろ?ゆっくり治療してもらって、完治して貰う方がいいじゃない。

 それに引退はしないと言ってたから、事務所は辞めないよ。そしたら、ソロデビューするとかするよ。そうなったら、テンカラのライブにもゲストとして来てくれるよ」

 そうかなあと思った。確かに多田さんの推しのみな子さんもテンカラを辞めてからはソロ歌手になって活動しているし、去年の秋の大感謝祭にゲストで来ていて、ライブ後は多田さん達、推しと楽しそうに交流していた。

 そうだよなあともう一度自分に言い聞かせた。

 ただ、今までのような幸せな時間はもう二度と来ないのだと思うと、心に穴が空いたような虚ろな感じと悲しみで胸が痛むのはどうしようもなかった。

 


 


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