ヒロト6
ライブが終わったので、ヒロトは帰ろうとしたが、タクに止められた。
「まだ終わりじゃないよ。今からがお楽しみだよ」
「うん?まだ何かあるのですか?」
「交流会だよ。ここでは販売会と言ってるけどね。まい姐と握手して、話も出来るし、グッズも買えるし、チェキも取れるよ」
「チェキって?」
「ポラロイドの写真のこと。ポーズし、ツーショットの写真を撮ってくれるよ」
「スマホで撮るのはダメなんですか?」
「ダメみたいだよ。画像がSNS上に拡散されるといけないから」
ポラロイド写真をスマホで撮影しても同じことではないかと思ったが、彼に言っても詮無いことである。ヒロトは黙った。
タクは続けた。
まず、スタッフ(鑑定さんというらしい)のいるテーブル(販売所)に行って、握手券やチェキ券を買う。そこではCDやグッズも買える。
握手券は500円で、握手をし、30秒間話が出来る。3枚まで使って最大90秒まで話すことが出来る。それで足りなければ、また列に並んで、順番が来たら90秒話すことが出来るとのことだった。
チェキ券は1000円で、サインを書いて貰うとさらに1000円追加で、2000円になる。
グッズを買うと、1000円につきチケットの交換券1枚をくれる。それを5枚集めるとライブが1回無料で見られる。
さらに、グッズを買った上にチェキ券も買うと、タオルの場合は女の子が顔を拭いてくれるし、Tシャツを買うと着させてくれるサービスがあるそうだ。
ヒロトみたいに初めて来た人は無料で握手券を2枚くれるとのことだったので、販売所に行くと、初めてなのを分かっていて、何も言わなくても渡してくれた。
客はざっと見たところ、40人弱しかいなかった。
先程までステージだったところに、いつの間か長机が並べられ、その向こうに7人の女の子が並んで立っていた。
それぞれの前に客が並び始めた。
ヒロトはもちろん彼女の前に立った。5番目である。
客がはけて、段々前に進んでゆくうちに心臓が張り裂けそうにバクバクしてきた。
そして、自分の順番になった。
彼女の前に立った時、緊張は最高潮に達した。
リーフレットやホームページに載っていた写真では、そんなに綺麗とは思わなかったのだが、こうして実際に会ってみると、やはり綺麗だ。
写真映りが悪いのだろうか?
写真では彼女の背の高さやスタイルの良さ、それから生き生きとした表情が伝わらないからだろうか?
ヒロトは黙ったまま、不思議なことにそんなことを考えていたが、彼女は屈託のない笑みを浮かべ、
「サファイア麻衣です。よろしくお願いします」
そう言って手を差し出した。
「あ、はい。どうも」
ヒロトは彼女の手を軽く握った。
女性の手に触れるなど初めてのことだった。
「初めての方ですよね?どこで、テンカラのことを知ったのですか?」
「一昨日の金曜に。歩道橋の上でビラを貰ったから」
「ああ、そうなのですね。あの日、乃木坂のコンサートに行ってたのですか?」
「いや、そんなんじゃなく、大学の帰りでただ歩いていただけだけど」
「金曜から今日まで東京ドームで乃木坂のコンサートがあったので、あの周辺にみんなでビラを配りに行ったのです」
「乃木坂のファンにですか?」
「そうです。アイドルに関心のある人の方が全く興味のない人よりバイヤー様になってくれる確率が高いのです。メジャーなところより、私達みたいなところの方が身近に交流出来るので、推し変してくれる人がいるのです」
先程タクも同じようなことを言っていた。
彼女はあっけらかんとしているが、そんなハイエナみたいな便乗商法をして、情けなくないのだろうか?
なんだか悲しくなってきた。そして、応援したい気になってきた。
「あ、私、今思い出したのだけど、あの日の夕焼け、めちゃくちゃ綺麗でしたよね?」
「ええ。凄く綺麗でした。オレンジ色の中を……」
あなたが向こうから歩いて来て、と話を続けようとした時、机の上に置いていたキッチンタイマーみたいなものがけたたましくブザーを鳴らした。
60秒なんて、ほんの一瞬である。
「すみません。時間です。よかったら、また来てください」
そう言って、もう一度彼女は手を差し出した。ヒロトは手を握ろうとしたが、横にいたスタッフに「お時間です」と言われて、横に押し出されてしまった。
ヒロトは今度は握手券を3枚買って、すぐにまた列に並んだ。
周りを見ると、タクが推しだと言っていたピンクの衣装を来た子の列が多少長いが、そんなに差はなかった。1人だけでなく、7人全員のメンバーと順に話している客もいた。
麻衣の前に行くと、満面の笑みで「うれしい」と感謝してくれた。
先程の続きの他愛のないことを話した。
ヒロトは自分が女性と会話出来ていることに内心驚いていた。これまで、若い女性と話した経験はほとんどなかった。
彼女が上手く質問を振ってくれ、会話をリードしてくれているからだろうか?なんだかスムーズに話が出来ているような気がする。
「さっき大学の帰り道と言っていましたが、大学生なのですか?」
ヒロトは兵庫の出身で、明政大の学生だと答えた。
「えー、明政大!すごい!賢いんですね」
そう言われて、驚いた。自分では決して賢いと思ったことはなかった。それどころか、東大や京大、医学部に行った高校の同級生と比べて、自分は馬鹿だと思い、コンプレックスの固まりのようになっていた。
ヒロトは褒められて、嬉しくなった。人から賢いと言われたのは高校に受かった時以来だろうか。
ヒロトはもう一度販売所に行って、今度はチェキ券と彼女の名前入りのタオルと彼女のカラーの青色のペンライトを買った。
そうしているうちに、握手会が終わり、チェキ会になった。
「今からチェキ会を始めます。チェキをご希望のバイヤー様はメンバーのカラーの写真ブースにご移動ください」と、メガホンを持ったスタッフが言った。
写真ブースといっても、床にメンバーの色の円形のカラーシートを置いてあるだけだ。そこで写真を撮るのだろう。
ヒロトは青色のシートのところに行き、スタッフに誘導されたところに立った。今度は1番前であった。
彼女が近づいてきた。
先程は長机の向こうで見えなかったが、青色のミニスカートの下で露わになった白くて肉付きのいい太腿を真近に見て、ヒロトは胸が苦しくなってきた。
彼女はヒロトの横に立つと、
「あ、タオルを買ってくれたのですね」と、ビニール袋に入ったタオルとペンライトをめざとく見つけた。
「タオルを出してくれますか?」
ヒロトがタオルを差し出すと、それを受け取り、「顔をもっと近づけてください」と言った。
彼が顔を前に出すと、彼女も近づき、タオルで顔を拭き始めた。
目の前に彼女の顔があり、甘い香りが鼻腔に入ってきた途端、顔が火照り、頭がカーッと熱くなり、思考回路は停止した。
その後は夢うつつであった。
「よかったら、今からオフ会に行きませんか?」
タクにそう声をかけられて、我に返った。
ファンはだいぶ帰っていて、会場内は人がまばらになっていた。
手には、彼女と片手ずつでハートを作るポーズで撮ったチェキがあった。
どんなポーズがいいかと聞かれ、答えられずにいたら、初めての時はそれがお勧めだと彼女が言ったことを思い出した。
その後、みんな写真を撮り終えると、牧場の羊のように、ファンはぞろぞろと彼女の後について、長椅子の方に移動した。彼女は出来上がったヒロトのポラロイド写真にマジックで、サインをし、日付を書き、ウサギのようなイラストを書いた。
そんな記憶が蘇ってきた。
数メートル先の長椅子の方を見ると、彼女は座って、まだファンのチェキにサインをしていた。
「オフ会?」
「そう、今からみんなで飲みに行って、今日のライブの感想など話すの」
「いや、でも、あまりお金がないから」
「大丈夫だよ。安い居酒屋だから。2000円もあれば十分だよ」
「ああ、そうなんだ。まあ、そのくらいなら」
「決まり!じゃあ行きましょう」
会場の出口に向かって歩き出すと、「今日はありがとうございました」との声がした。
振り返ると麻衣が手を振っていた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
ヒロトも手を振り返す。
麻衣は「また来てくださいね」と言った。
彼女の隣にいた緑の衣装の女の子が「今度は私のところにも来てくださいね」と言い、彼女達は顔を見合わして、互いに抱くように腕を背中に回して、高らかに笑った。
「分かりました。また来ます」
ヒロトはそう言って、タクに続いて、外に出た。
心はとろけるほどに甘くて幸せな気分に満ち溢れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます