6.

 瞳いっぱいに、純白が飛び込んで来る中――。


 牡丹は菊の手をしっかり握り直すと、方向を変え。菊を引っ張るような形で、そのまま出口目がけて駆けて行く。


 その光景に定光は一瞬呆気に取られるが、すぐに我に返り。追いかけようとしたものの、突然目の前に小さな黒い影が立ちはだかる。



「ふうん。定光お兄ちゃんって、思っていたより手応えがなくて。なんだか拍子抜けしちゃったなあ」



 緊迫とした空気とは裏腹、飄々とした甲高い声が響き渡る。その声音に、定光の眉間には薄らと皺が寄せられる。


 定光は、すっ……と瞳を細めさせ。行く手を阻んでいる人物へと狙いを定める。



「君は、天正芒くんかい?」


「そうだよ。あのね、僕、お兄ちゃんと取引に来たんだ」


「取引だって?」


「うん。これを見て」



 そう言うと、芒は手に持っていたタブレットを掲げて見せる。画面を見るなり定光は、我が目を疑う以外に他はない。目を瞠らせたまま、下唇を噛み締める。



「株価がこんな急激に下落し始めるなんて、ブラックマンデー並みの動きじゃないか。一体何が起こっているんだ……!?」



 今までの定光からは考えられないほど、鋭い眼差しを芒へと差し向け、

「もしかして、これは君の仕業か……? 天正桐実の差し金か?」


「ううん、僕が勝手にやったんだ。僕に株のことを教えてくれたのはお父さんだけど、この状況を作り出したのは僕の意思だ。だから、お父さんは関係ないよ」


「天正桐実が関係ないということは、君の目的は一体なんだ?」



 先を焦る定光に、芒はもったいつけるよう、「あのね」と、ゆっくりと嘲笑の色を帯びた口角を上げさせていく。



「僕は別に鳳凰家とか朱雀家とか、天正家の因縁なんてものにはこれっぽっちも興味ないんだ。だから、お兄ちゃん達のことなんてどうでもいいの。

 僕が望んでいることは、一つだけ。――家の権利書を返して」


「家の、権利書だって……?」



 芒は小さく頷くと、もう一度、先程よりもはっきりとした音で繰り返す。


 それに対し、定光の口調は自然と荒れていく。



「こんなことをすれば、日本の経済全体に影響が出るぞ。この状況を作り出せるくらいの資金があったなら、高が家一軒、余裕で買えただろう」


「“高が”じゃないよ。あの家は、僕にとっては最も大切な場所だったんだ。代わりなんて、どこにもない。それなのに、定光お兄ちゃんは僕の一番大切なものを奪った。

 僕はお兄ちゃんとは同種で、目的のためなら手段は選ばない人間だよ。周りがどうなろうと、どうでもいい。

 だから、分かるよね? 全てを失った人間が、失うものがない人間は、何にでもなれるって。そう……、鬼にだってなれるんだよ」



 にこりと満面の――、けれど、純粋なほど狂気に満ちたその表情を前に、定光の喉奥からは、空気が抜けていく音ばかりが漏れる。



「どうするの? 家の権利書を返してくれるなら、元の状態に戻してあげる。株って始めたばかりだけど、なかなか面白いね。ううん、人間が単純なだけかな。だって、ちょっと弄っただけで、僕の思い通りに動いてくれるんだもん。だけど、この状況を作り出したのは僕であり、僕ではないから。法律ではきっと裁けないよ。

 さっきも言ったけど、僕は朱雀家が――、鳳凰家がどうなろうとどうでもいいんだ。いっそのこと、……潰してあげようか? そうすればお兄ちゃん達はもうお父さんからの脅威に怯えなくて済むし、お父さんだって復讐の念から解放される。

 鳳凰グループって、確か輸出産業にも力を入れてたよね。このままずっと円高が続けば、そっちの事業にも影響が出ちゃうよね? ねえ、」



「どうするの?」と芒は問いかけるが、それは最早無駄な行為で終わる。すぐにあどけない笑みを浮かべる。


 こうして二人は互いに口に出すような真似はしなかったものの、勝敗の結果は明瞭で。


 書類の遣り取りが行われると、萎んでいた定光だが、態度を一変させ、

「こんな年端もいかない子どもに、出し抜かれるなんて。だけど、彼女だけは絶対にっ……!」


「あれ。菊お姉ちゃんのこと、まだ諦めてなかったの?」


「ああ。君との契約は、家の権利書を渡すまでだ。彼女のことは、含まれてなかったよね?」



 まるで小馬鹿にするよう、問いかける定光に、芒は半ば呆れ気味だ。


 それから後を紡ごうとするが、それは隣に立っていた男に遮られる。男は――、天羽はしゃがみ込むと、芒と目線を合わせ、

「芒。お前は先に行ってなさい」


「おじいちゃんは?」


「私も後で行くから」



 そっと天羽に頭を撫でられると、芒は静かに頷く。小さな肢体を動かして、その場から遠ざかる。


 一人だけ残った天羽は、ゆっくりと立ち上がった。

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