9.
薄暗い閑散とした廊下で、牡丹は跋の悪い顔を浮かばせたまま、
「あの、藤助兄さん」
言い辛げに、それでも切り出すと、済みませんでしたと軽く頭を下げる。
牡丹の傍らには、目元を赤く腫らした紅葉の姿があり。そんな彼女の痛々しい様に、藤助は湿った息を一つ吐き出させる。
「いいよ、これくらい。でも、萩くんが階段から転がり落ちたって聞いた時は、びっくりしちゃったよ。軽い捻挫程度で済んで良かったね。
支払とか病院の手続きは俺がしておくから、二人は先に帰りな。
牡丹、もう暗いから、紅葉さんのこと、ちゃんと家まで送ってあげるんだよ」
「分かったね?」と、藤助に強く念を押され、牡丹は頷く以外に他はない。
牡丹と紅葉は微妙な距離を置きながらも病院を後にし、同じ方向に向かって歩き始める。
が。
(どうしよう……。)
なんだか気まずいと、牡丹はふよふよと適当に視線を宙に泳がせる。時折、斜め後ろを付いて歩いて来る紅葉へと向ける。
紅葉の顔色を窺うよう、牡丹はちらちらと盗み見るが、はっきりと読み取ることはできない。
(萩と紅葉が別になんでもないってことは、分かったけど。好きだって言われて、その後、どうしたらいいんだ?
普通だったら付き合うとかそういうことなんだろうけど、でも、別に付き合ってくれとは言われてなくて。なのに、返事をするのも、なんか変な感じだよな。
一体どうしたら……。)
いいのだろうと、牡丹は必死に頭を捻らせ続けるが、良い考えは何一つ思い浮かばない。
それでもうだうだ考え込んでいると、紅葉が遠慮深げに、
「あの……」
と、小さい声を発し、
「この前のことですけど……」
紅葉は俯いたまま、口を開かせ、
「気にしないでください」
「え……?」
「この前、私が言ったことは、気にしないでください。私が勝手にそう思っているだけで、だから……」
「気にしないでください」と、もう一度。紅葉は変わらぬ調子で繰り返す。
牡丹は一瞬、呆気に取られるが、微弱ながらも震えているその肩をじっと見つめる。
「あのさ、その。そのことだけど、さ。俺、あんなこと言われたのって、初めてで。だから、なんていうか……。
俺は誰のことも好きにならないって、独りで生きていこうって、ずっとそう思ってて。だから、誰かからそんな風に思ってもらえるなんて、ちっとも想像したことがなくて。紅葉にそう言ってもらえて、悪い気はしなくて。だけど、今は桜文兄さんのこととか、菊のこととか、特に菊は俺のせいなのもあって、このままにしておくことはできなくて。
だけど、どうしたらいいのか分からなくて……って、自分でも何を言っているのか、よく分からないけど……」
牡丹はこんがらがっている頭の中を解いていこうとするが、解こうとすればするほど、ますます絡まっていく一方だ。
未だ整理が付いていないながらも一つ深呼吸すると、引き続き牡丹はゆっくりと口角を上げさせていき、
「とにかく、ごめん。今はまだ、ちゃんとした答えが出せない――」
口を閉ざすと同時、ずっと隠れていた紅葉の顔が、朧ながらも瞬いている月の光によって晒される。その光を燦爛と反射させていた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ出す。
「も、紅葉!? あの、本当にごめん。でも、俺……、」
「いえ、ちがっ……。そんなに真剣に考えてくれたのが、嬉しくて……。
すごく、すごく、嬉しくて……」
「それだけで、十分です」ふわりと柔らかな笑みを浮かばせる紅葉を前に、
「うん……、」
と、一言。淡い月光を浴びながら、牡丹はどうにか喉奥から絞り出した。
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