2.
昼休み――。
人気のない裏庭にて。
ぽつんと一つ、人影がある。その人影――萩は、なぜかぽけっと間抜け面を浮かばせたまま、茫然とその場に立ち尽している。
いつまでもそこから離れられない萩は、すっと青々とした空を見上げる。
(紅葉さんじゃなかった……。)
己の早とちりによる喪失感ではあるが、しかし。一度抱いてしまった希望からは、簡単には逃れることができない。
情けなくもなかなか立ち直れずにいる萩であったが、突然、そんな彼の背後から、どしんと鈍い音が鳴り響いた。その轟音に、彼は思わず大きな口を開ける。
「うわああっ!??」
素っ頓狂な音を漏らす。
ばくばくと跳ね上がった心臓をそのままに、萩は音のした方を振り向く。
「なっ、なっ、ひ、人……? なんで上から人が。
あの、大丈夫ですか?」
「いたた……。うん、平気、平気。これくらい」
「これくらいって……」
(結構な高さから落ちたと思うけど。)
じろじろと訝しげな瞳で見つめる萩とは裏腹、その人物は能天気そうだ。軽い笑声を上げながら、おそらくぶつけただろう腰を擦っている。
痛みも治まったのか、ようやくその面を上げた。
「……って、」
(この人は牡丹の異母兄の、確か三男・天正桜文――。)
ぱちぱちと瞬きを繰り返させる萩を置いてけぼりに、桜文はへらりと締まりのない顔を浮かべている。
そんな桜文に、やっと鼓動が静まったかと思いきや、今度は疑問が付きまとう。
「あの、どうして上から落ちて来たんですか?」
「それが、コイツが木の上から下りられなくなっていてさ」
「コイツって……」
桜文の視線の先を追うと、彼の腕の中で茶色い塊がのそりと動いた。続いて「にゃあ」と、甲高い音が鳴った。
猫は赤い舌を出すと、ちろちろと桜文の手を舐め回す。
「よし、よし。もう大丈夫だぞ。
いやあ、木登りはあまり得意じゃなくて。つい足を滑らせちゃってさ」
「はあ。それより、本当に大丈夫なんですか? 相当高い所から落ちたみたいですけど」
「うん。あれくらい平気、平気。ちゃんと受け身も取ったしさ」
そう笑い飛ばす桜文に、やはりあれくらいという度合いでは済まない気がすると。萩は思ったものの、口には出さずに呑み込んだ。
代わりにもう一つの疑問を、その口から吐き出す。
「あの。もしかして、見ました?」
「見たって何を?」
「だから! 俺が告白されてる所を……」
歯痒そうに続ける萩に、桜文の方も珍しく跋の悪い表情を浮かばせる。
「ああ、うん。いやあ、どうしようかなと思ったんだけど、出て行くタイミングが掴めなくて。
なんかごめんね。でも、随分ときっぱり断ってたね」
「変に期待を持たせても、相手にも自分にも良いことなんて一つもないじゃないですか」
「そうだよね。萩くんには、菊さんがいるもんね」
そう述べる桜文に、萩はきょとんと目を丸くさせる。
「えっと、なんでそこで牡丹の異母妹の名前が出てくるんですか?」
「なんでって、二人は付き合ってるんでしょう」
萩はまたしても数回、瞬きを繰り返し、
「はあ……?」
と、間の抜けた声を盛大に漏らす。
思わず崩れてしまった顔をそのままに、
「あの……、何か勘違いしているみたいですけど、俺と牡丹の妹は、そういう関係ではありませんから」
「え。違うの?」
「当たり前じゃないですか。なんでそんなことになってるんですか」
「だって、学祭の庚姫コンテストで。二人はそういう関係に」
「あれはあの女が適当に俺を指名しただけで、深い意味なんてありませんよ。要は、虫が良い暇潰しの相手に選ばれただけです」
はっきりと返す萩に、一方の桜文は、
「そうだったんだ……」
と、ぽつりと小さな音で応える。
そんな桜文との会話に、萩は朝方のことを間接的に思い出し。ポケットの中に手を突っ込んでだが、とたとたと軽快な音がそれを遮った。
「桜文先輩! 済みません、遅くなっちゃって。前の時間が体育だったので、着替えに手間取っちゃって。もうお腹ぺこぺこです」
にこにこと満面の笑みを添え、弁当を抱えながら桜文の元へと寄って行く万乙を前に、萩はポケットの中に手を突っ込ませたまま掴んでいたものをぱっと離した。
「……牡丹にでも渡せばいっか」
踵を返し、萩は一人教室への道を辿って行く。
が。
(あの人もそうだが、どいつもこいつも本当に、牡丹と血が繋がっているのか? とは言っても、半分だけだが。けど、それにしたってもう少しくらい、似ている所があっても良い気がするのに。
唯一似ていると言うか共通しているのは、兄弟それぞれの名前に花の名が入ってるくらいで。
……ん、待てよ。)
ぐるぐると、頭の中を回転させ。
「うん。確かに名前の方はHになるけど、だが、天正なんだから、姓はTになる訳で。それじゃあ、やっぱり違うか……。いや、」
萩は息を吸い込み。そして、ゆっくりと吐き出させ。
「旧姓――……、」
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