4.
天正家の一階の、普段はあまり使われることのない和室にて。その場の雰囲気とは不釣り合いな、冷たい電子音がいつまでもけたたましく鳴り響く。
「電話? それも非通知だ」
「こんな夜中に一体誰が……」
ぐっと眉間に皺を寄せさせる道松を余所に、梅吉はずっと音を鳴らし続けている機械へと手を伸ばす。
「お、おい……!」
道松の意思通り、梅吉は一瞬だけ躊躇したが、しかし。勢いに任せると通話ボタンを押し、そのままゆっくりと携帯を耳に宛がえる。
「……もしもし?」
「もっしもーし! って、あれえ。また声が違う。
なんだ、藤壺ちゃんじゃないのかー」
「違うのかー」と、残念そうに。男のものにしては高い音で、飄々と紡がれる。
脳内を揺さ振るようなキンキンとした声に梅吉は思わず電話を耳から離すが、丁度良い距離感を掴むとその位置で固定させる。
「藤壺ちゃんだって? 誰だよ、それ」
「誰かって、それは君達の方がよく知ってるんじゃないかなあ? この携帯に電話をかけた時、持ち主の代わりに出た子なんだけどさー。
まあ、いないのなら君でもいいや」
「それは悪かったな、愛しの藤壺ちゃんじゃなくて。
それで。お宅は一体何者だ?」
「何者かって? そうだなあ」
男は一寸考え込み、
「私の名は、光源氏――……とでも名乗っておこうか」
にやにやと、気味の悪い笑みが後へと続いた。
「へえ、光源氏ねえ。随分と大それた名前だなあ」
「光源氏が大それた名だって?」
「だって、そうじゃないか。光源氏って、あれだろう。源氏物語っていう空想話の主人公で、金持ちでー、才色兼備でー、女の子にはモテモテの、誰もが羨む色男だろう?」
反撃とばかり。今度は梅吉が唇に嘲笑を乗せるが、相手はそれを、
「そうだね」
と、さらりと躱す。
「確かに君の言う通り、光源氏は、表向きは栄華を極めた誰もが羨む存在だ。だが、その裏側はどうだ?
数々の女性と関係を持ち、恋に生き、恋に死んだような風に思っているようだが、あの男がしていたことは決して恋ではない。幼い頃に失った母親の愛情を追い求めるあまり、出逢った女性を次々に不幸にさせただけの、――最愛の妻である紫の上でさえ、己の浅墓な行動が故に苦悩の中で死に至らしめた、魔物のような男だ。
そして、彼自身も彼女を失った絶望感に耐え切れず、残りの人生を失意の日々に身を窶していった。哀れで惨めで救いようのない、愚かな男の一人に過ぎないよ」
「へえ、そうなのか。それは知らなかったな。
なに、生憎俺は、勉強は大が付くほど嫌いでね。源氏物語なんて壮大な物語の話をされても、さっぱり分からねえなあ」
「それは残念だねえ。面白いのになあ、源氏物語」
「残念、残念」と男は繰り返させるが、全くそう思っているようには感じられない。
梅吉は適当に男のことをあしらうと、わざとらしく咳払いを一つして、
「それで。わざわざ電話をかけて来たってことは、この電話の持ち主に用があったんじゃないのか?」
と訊ねる。
「伝言しといてやるから用件を言えよ」
「いいや。俺が話をしたかったのは、藤壺ちゃんの方で。特にこれといった用はないんだけど、なんだか急に寂しくなっちゃったから。慰めてもらおうと思ってさ」
「ふうん、寂しくてねえ。だったら、ここより余程良い所を紹介してやろうか? テレクラって言うんだけどさ、テレフォンクラブ。おじさん世代の方が詳しいんじゃないの? ネットで検索すれば、すぐに近所の店が出て来ると思うぞ」
「全く、君は何も分かってないなあ。せっかく教えてくれた所、悪いんだけど、ああいう所は嫌いでね。だって、作られた出逢いに運命なんて。とても感じられないからさ」
「運命だって? ふうん。だったらウチの藤壺には、その運命とやらを感じてるのか?」
「ああ、感じてるね。そして君、――秋好中宮にもね」
機械越しに、くすりと男の笑い声が耳を掠める。その嫌らしい嘲笑に、梅吉の眉間には薄らと皺が寄せられる。
歪んだ顔をそのままに、梅吉は口角を上げる。
「秋好むだと? おい、おい。そうやって、勝手に人に変なあだ名を付けるな。別に俺、秋なんか好きじゃねえよ」
「そうなの? それは残念だなあ、君にぴったりの名だと思うんだけど。それとも、梅壺と呼んだ方がお気に召すかな?」
「梅壺だと……?」
「ああ。秋好中宮は、梅壺を局としたことから梅壺女御とも呼ばれているんだ。俺としても、秋好中宮だと長くてね。梅壺の方が呼びやすくて好きだな」
「梅壺ねえ」
梅吉の口からは、胡散臭そうな息ばかりが漏れる。がりがりと、乱暴に頭を掻いた。
どうしたものかと頭を捻らそうとするが、その矢先。男の吐息が鼓膜を揺する。
「あっ、そう、そう。一つ忠告しておくと、女三宮には気を付けた方がいいよ。俺は止めたんだけどねえ。三宮を引き取るのは、危険だって。その身を滅ぼしかねないからってさ――」
「はあ、女三宮だあ? また訳の分からないことを……」
「何を言ってるんだ」と、梅吉は返そうとしたが、ふっと嫌らしい男の嘲笑がそれを遮る。彼は手短に別れの挨拶を告げると、そのまま音声は途切れてしまった。
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