7.
「えっと、これって果たし状だよね?」
桜文が例の紙を掲げながら訊ねると、万乙は首を左右に振り、
「いえ、ラブレターです!」
「らぶれたー?」
桜文は彼女の言葉を片言だが、真似て口に出してみる。だが、その単語本来の意味は全く頭に入ってこない。ますます訳が分からないと、桜文はすっかり頭を混乱させてしまう。
「えっと、これがラブレター……?」
「そうですが、どうかしましたか?」
「いや、その。果たし状って書いてあったから、戦うとばかり思ってて。それに、名前もどこにも書いてなかったから、てっきり男からだと……」
「えっ? あっ、本当だ。名前、書き忘れちゃった」
そう万乙が認めた瞬間、突然、傍らの草むらががさがさと動き出した。そして、
「ちょっと、万乙! あれほど名前を書き忘れるなって、いつも言ってるでしょう!」
と、怒声を上げながら、頭にカチューシャを付けた女生徒が勢いよく飛び出して来た。
「あれ、
「どうしてって、アンタのことが心配だから様子を見に来たに決まってるじゃない! そしたらなによ、このギャラリーは!?
アンタ、一体どんな風にして先輩のことを呼び出したのよ!?」
そう言う船居に、万乙は桜文の手元を指差してみせる。すると、船居は大きな息を吐き出しながら、額に手を当てた。
「アンタって子は、本当に。一体何を考えているのよ!」
「だって、船居ちゃんが。こういうのは、インパクトが大事だって言うから……」
「だからって、どうしてラブレターが果たし状になるのよ!? しかも、名前まで書き忘れるなんて」
「このお馬鹿!」と、船居は一層声を荒げ、ぴしゃりと万乙のことを叱り付ける。
だけど、一方の万乙は、けろりとした顔のままだ。
「それなら大丈夫。今から書き足すから」
そう言うと、一体どこに持っていたのだろう。万乙はどこからともなく習字道具を取り出すと地面の上に広げ、せっせと墨を磨り始める。
その様子を、桜文は腰を屈めて覗き込む。
「へえ、墨を磨る所から始めるなんて。本格的だね。習字道具、いつも持ち歩いてるの?」
「はい。書道部なので」
「ああ。だから字が上手なんだね」
「えっ、本当ですか? えへへっ、褒められちゃった」
「ちょっと、万乙。墨汁にしなさいよ。どうせ名前を書き足すだけなんだし」
「でも、墨汁だと時間が経つと劣化しちゃうし、それに、墨を磨っていると精神も統一できて、字も落ち着いて書けるし……」
「それはそうだけど、少しは状況を考えなさいよ。先輩を待たせているんだから」
「大丈夫だよ、俺のことは気にしなくて。ゆっくりでいいから」
とにもかくにも船居に怒られながら、万乙は自身の名前を果たし状……、もといラブレターに書き加える。
「……ふう。よし、書けた!
見て、見て、船居ちゃん。ここ最近で、一番のできだと思わない?」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう! 先輩を待たせているんだから、さっさと渡しなさいよ」
またしても船居に怒られていると、どこからともなくサッカーボールが飛んで来た。それは見事硯の中に命中し、ばしゃんっ! と、盛大に墨が跳ね……。
「すみませーん。ボール、そっちに行きませんでしたかー? ……って、うわあっ!? えっと、どうしてこんな所で習字を……」
しているんだろうと、名もないサッカー部員は、その光景に困惑顔を浮かばせるばかりだ。
「ああ、もう! この子は本当に。こんな所で、習字道具なんて広げるからでしょう。ほら、せめて顔くらい拭きなさいよ。あーあ、こんなに汚して」
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ、はい。この子のことは、気にしないで下さい。それと、ボールを汚してしまってごめんなさい」
「いや、それは別に。このくらいの汚れなら、洗えばすぐ落ちるし。それより、その子の方が余程大変なんじゃ……」
すっと指差す先に視線を向けると、万乙はぽろぽろと大粒の涙を流していた。
「どうしよう、制服汚しちゃった……! またお母さんに怒られちゃう」
「大丈夫だよ。きっと藤助なら、こういうの得意だから」
そう励ますと、桜文はスマホを取り出す。
「えっ、墨汁の滲み? ああ、これか。随分と派手に汚したね。うん、落とせると思うけど」
「そっか。だって、良かったね」
「はい、ありがとうございます。これでお母さんに怒られないで済みます」
良かった、良かったと、朗らかな空気が流れている中。けれど、そんな空気に染まって居ない藤助は、頬の端を若干歪ませる。
「所でさ。この騒ぎは一体……」
騒動の中心に立っていることに気が付くと、ぐるりと周囲を眺め回す藤助に、桜文と万乙は揃ってぽけっとした顔を浮かばせる。
「えっ……?
あれ。そう言えば、何をしてたんだっけ?」
「えっと、何をしていたんでしたっけ?」
「ちょっと、告白の最中でしょうが! 本人が忘れるんじゃないわよ!」
万乙はまたもや船居に怒られ、ようやく本題へと戻る。
「えっと、そのー……。俺、女の子と付き合ったことないから。そういうの、よく分からなくて」
「だから……」桜文は後を続けようとしたが、それは船居の、
「あの!」
という声によって遮られてしまう。
「それじゃあ、一ヶ月……、ううん、二週間! 二週間で構いません。お試しということで、一度この子と付き合ってみてくれませんか!?」
「えっ、お試し?」
「はい。先輩は、まだ万乙のことを全然知らないじゃないですか。ろくに話したこともないんですから。だから断るのは、試しに付き合ってから――相手のことを知ってからでも遅くないと思うんです」
「確かに、そう言われると……」
「確かに、そうだねえ……」
「ちょっと、万乙。アンタまで一緒になって感心してるんじゃないわよ! 誰のために言ってあげていると思っているのよ、全く。
それに。先輩、いつもそう言って断ってますけど、そしたらいつまでも誰とも付き合えないってことじゃないですか?」
ぐいぐいと詰め寄って来る船居に、桜文は半歩後ろへと下がる。たじたじ顔をそのままに、一瞬だけ、青々とした空を見上げる。
「いつまでも、か――……」
口先で小さく繰り返すと、桜文は漆黒色の瞳を揺らし。それから万乙の大きなそれを見つめ返した。
そして、
「……いいよ……」
「え……」
「取り敢えず、えっと、船居さんだっけ? 彼女の言う通り、お試しということで。俺でよければ、それでいいよ」
すっかり呆気に取られている周りを無視し、桜文は、もう一度同じ台詞を繰り返す。
だが、それでもあまり変わらない状況を余所に、ここでやっと出番とばかり。大太鼓の音が、ドンッ――! と一つ、盛大に鳴り響いた。
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