7.

「あれ、おかしいな。卓球ルームに戻れないぞ。こっちの方から来たと思ったのに……」



 熱の残る頬をそのままに、桜文は呆然とロビーに立ち尽くす。


 先程から歩き回っているにも関わらず、いつまで経っても目的の場所へと着けず。どうしたものかと、ふわふわと朧気な頭を傾けた。


 けれど、突っ立っていても仕方ないかと。もう一度、試みようと歩き出すが、ふとある光景が目の端に映り込む。すると自然と足は、そちらへと向かっていた。


 辿り着いた先には、年頃はおそらく大学生くらいだろうか、数人の男の姿があった。その中心には彼等とは不釣り合いというか、不調和というか、溶け込めていない一人の美少女がある。むすりと眉間に皺を寄せてはいるが、それでもその美しさが薄れることはない。


 傍から見ても煙たがっている彼女をそれでも無視し、男達は執拗にも付きまとっていた。



「ちょっとくらい良いじゃん。俺達の部屋、お菓子もゲームもたくさんあるしさあ」


「そうだよ。少しだけ、少しだけで良いから。絶対楽しいから、ね」



 男達は折れる所か、ますます勧誘に拍車をかける。本人達からしてみれば、魅力的とばかりの言葉を並べ立てて。


 しかし、彼女の表情は歪んでいくばかりで。花弁みたいな唇が、すっ……と開きかけるが、その手前。



「あの、すみません」


「ああっ? なんだよ、兄ちゃん。俺達に何か用か?」


「えっと、用があるのはこっちの子で……。

 この子、俺の妹なんです」


「妹だあ? 妹って……。

 あははっ、兄ちゃん。どうせ嘘を吐くなら、もう少し真面な嘘を吐きなよ。この子と兄妹って、全然似てないじゃん」


「そんなこと言われても、本当のことなんだけどなあ」



 けらけらと腹を抱えて笑っている男達を余所に、そうだよねと。桜文は同意を求めるよう菊の方を見るが、一方の彼女もそれに応えることはない。


 唯一の味方だと思っていた菊にも裏切られ、四面楚歌とでも言うのだろうか。それ以上反論を述べる代わりに桜文は眉尻を下げ、ぽりぽりと指先で頬を掻いた。



「なあ、兄ちゃん。俺達、忙しいからさ。兄ちゃんの冗談に付き合ってる暇はないんだよ。それとも、なんなら兄ちゃんも一緒に来ないか?」


「おっ、それもいいかもな」


「良いじゃん、良いじゃん。お兄ちゃんも一緒にプロレスごっこでもしようぜ」


「プロレスごっこですか? プロレスごっこなら得意ですよ。でも、どちらかと言うと、柔道の方が得意ですけど」


「柔道だって? ああ、成程。寝技ってことか。

 上手いな、兄ちゃん」


「上手いって、見せたことがないのに分かるんですか? それに俺、寝技よりも立ち技の方が得意ですよ」



 どうせなら見せましょうかと言うや否や、桜文はその内の一人の片腕を掴み。軽々と背に負うと、そのまま膝を伸ばして投げ下ろした。


 バンッ――! と、鈍い音が後へと続き。技をかけられた本人とそれを見ていた男達は、一瞬状況を理解できない。ぽかんと拍子抜けしていたが、我に返るや揃って顔を蒼白させ。すたこらと、一目散にその場から去って行く。


 取り残された桜文は、

「あれ。もうおしまいなのか?」


 少し物足りなそうに、けれど、特に追いかけたりすることもせず。そのまま情けない背中を見送った。


 それから、菊の方を振り返り、

「大丈夫だった?」

 そう問うと桜文はひょいと腰を屈ませて菊の顔を覗き込むが、彼女はむすりと顔を歪ませたままだ。質問に答えることはなく、その代わり、桜文の手首を掴むと勝手に歩き出した。


 桜文が行き先を尋ねても、やはり彼女は答えることはない。すたすたと、一定のペースで進んで行く。


 こうしてなぜか男湯の前まで来るが、菊は一寸も躊躇うことなく暖簾を潜り。周りの視線を物ともせず、そのままの調子で脱衣所を通って浴室へと入って行く。シャワーを手に取ると桜文の顔面へと狙いを定め、そして。蛇口を全開にし、大量の水をぶっかけた。



「ぶっ!? うわっ、冷たっ……って、あれ、菊さん? それに、ここは……」



 いきなり冷や水をかけられ、その衝撃で酔いも醒めたのか。桜文は何度か瞬きを繰り返すと、きょとんと目を丸くさせる。だが、そんな間抜け面に、おまけとばかり、もう一発。菊は容赦なく水をぶっかけると、一人先に浴室から出て行った。


 置いて行かれた桜文は、ぽたぽたと前髪の毛の先から滴り落ちる雫を薄ぼんやりと見つめながら、

「俺、今まで何をしてたんだっけ……?」

 うんうんと唸り声を上げ、思い出そうと努めるが、その甲斐も虚しく。残念ながら、空白の記憶が蘇ることは一向にない。


 周りからの視線が集まっている中。それでも桜文は腕を組んだまま、ただただその場に立ち尽くした。

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