7.

 一方、その頃の天正家と言えば――……。



「ったく、他人の家でこんな仕打ちを受けるなんて」



 萩はがしがしと、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、

「この服、小さくて着苦しいぞ。もっと大きいサイズのものはないのかよ」

と、口先をつんと尖らせる。


 そんな萩の態度に、牡丹はむすっと顔を歪ませる。



「なんだよ、せっかく貸してやったのに。それが一番大きいサイズだよ。文句を言うなら返せよ」



 そう言うと、牡丹は萩の服の裾を引っ張る。



「おい、引っ張るなよ。首が締まるだろうが。大体、お前の妹が、湯をぶっかけたせいじゃないか」


「それは萩が菊の風呂を覗いたからだろう」


「だから、わざとじゃないと言ってるだろう!」



 萩がそう声を張り上げた瞬間、威圧的な視線を感じる。二人は揃ってそちらに顔を向けると、瞳に異様なほど鋭い光を宿した菊の顔がそこにはあり……。


 そんな彼女の表情を前に、二人はおとなしく口を閉ざすしか他にはない。しばらくの間、黙り込んでいたが、不意に牡丹はひょいとテーブルの上に置かれていた、唯一の光源である懐中電灯を持ち上げる。


 けれど。



「ちょっと、何してるのよ」


「何って、俺も風呂に入るから。いいだろう、菊だって持って行ったじゃないか」


「何よ。アンタなんて、スマホで十分でしょう」


「十分って、俺のスマホは防水じゃないんだぞ」



 牡丹はそう主張するが、彼が口で菊に勝てる訳がない。数分に渡る攻防の末、牡丹が諦めると、スマホの明かりを頼りに浴室へと向かう。


 その様子を、萩は第三者の立場から眺めていたが。



(ふうん、なんだ。この女、兄貴である牡丹に対しても、こんな感じなのか。)



 相変わらずだと思う傍ら。しんと静まり返っている部屋の異様さに、萩はぐるりと薄暗い室内を見回す。



「おい、牡丹の妹。そういやあ、兄貴達はどうしたんだ? 全然姿が見当たらないが」


「いないですよ」


「へ?」


「兄さん達ならいませんよ。この天気で今日は帰って来ません」


「帰って来ないって……」



 ぽつりと口先でそう返すと、萩は一拍の間を置く。



(いや、いや、いや。たとえ二人きりだからと言って、別に何かある訳ないじゃないか。牡丹だって、どうせすぐ風呂から出て来るだろうし。

 けど、あの日以来、この女とは一言も話してないからな。)



 すっかり変な空気が醸し出されてしまっている中、どうしたものかと。萩は片眉を顰めさせる。


 しかし、頭を数回左右に振り。気休めとばかりグラスを手に取ると、縁に口を付ける。冷えた麦茶を乾いた喉奥へと流し込むがその横で、菊の口角がゆっくりと上がっていく。



「兄さん達がいないからと、さっきみたいに少しでも変な真似をすれば。問答無用で、外に叩き出しますから」



 刹那、ぶっと盛大に、萩は飲みかけていたお茶を吹き出した。


 げほごほと咳き込むこと、数回。彼は汚れた口元を手の甲で拭いながら、

「なっ……、だから、さっきのはわざとじゃないって言ってるだろう! 風呂とトイレを間違えたんだ」

 そう強く主張するが、菊の目は変わらない。疑いの眼差しをしたままだ。


 そんな菊の態度に萩は拳を強く握り締め、ぶるぶると震わせる。怒りで歪めていた顔をどうにか取り繕い、ふっと鼻息を荒く吐き出させる。



「大口を叩くのはお前の勝手だが、けど、一体どうやって俺を外に叩き出すんだ? そんなこと、女のお前には……」



「無理だろう」とその続きは、なぜか天井を見上げて言っていた。気付けば萩は、自然と口は萎まれていた。


 ぱちぱちと、彼は何度か瞬きを繰り返す。



「へ……、え……、あれ……?」


「『女のお前には』、何ですか?」


「何ですかって、それは……」


「それは?」


「それは……」



 菊の顔を見上げながら、萩はごくんと、生唾を呑み込ませる。


 彼女の深い瞳を見つめ返したまま、彼は喉を開かせる。


 が――。



「お前等、何をやってるんだ……?」



 突如、響き渡った混沌とした声に。そちらを向けば、扉の前で口元を引き攣らせている牡丹の姿があった。



「何って……」



 萩は、目の前の菊の顔を見つめ直すと、頬に集まる熱をそのままに、

「ち、ちがっ、これは、お前の妹がいきなり……!」


「襲われそうになったから、先手必勝で正当防衛をしただけ」


「襲うって、お前……」



 菊の言い分に、牡丹はじとりと目を細め、組み敷かれている萩を見つめる。



「おい、牡丹の妹。嘘を吐くな!」


「嘘なんて。女だからと甘く見て、今にも襲いかかろうと……」


「そんなの、お前の被害妄想だ!」



 つんとそっぽを向いている菊に萩は果敢にも挑むが、しかし。絶対に勝てる訳がないよなと、牡丹は既に勝敗の見えている戦いに呆れ顔を浮かべさせる。


 それでも萩の否定の声が必死に発せられる中。またしてもピンポーンと、チャイムの音が鳴った。



「うええんっ、菊ちゃん……!」



「牡丹! 悪いが泊めてくれ」

と、戸を開けるなり、紅葉と竹郎の二人が飛び込むようにして入って来た。


 手にはボロボロの、おそらく傘であったものを持ち。全身は雨に打たれたのだろう、服がべったりと張り付いている。


 そんな二人の様子に、牡丹は同情を寄せながらも首を傾げさせる。



「えっと……、なに。お前達二人、一緒だったのか?」


「いや、甲斐さんとは途中で会ったんだ。

 いやあ、予報では、台風が来るのは明日だって。だから大丈夫かと思って外に出たら、いつの間にかこんな天気になっちゃって。傘も骨が折れて全然使いものにならないし、自分の家に帰るより、お前の家の方が近いと思ってさ」


「紅葉まで、こんな日に何をしてたのよ」


「私は美容院の帰りで……。前から予約していたし、それに、家を出た時は晴れていたから大丈夫かなって、そう思って。

 なのに、急に天候が荒れて、雷は鳴りっ放しで怖いし、髪もせっかく切って来たのに……」



 雨ですっかり水を吸い込んでいる髪の束を一房掴みながら、くすんくすんと泣き出す紅葉の前に、萩はすかさず躍り出る。



「紅葉さん! なに、もう大丈夫ですよ。家の中なら安全です。何も心配などありません。それより、そんなにずぶ濡れでは風邪を引いてしまいます。

 おい、牡丹。何をぼさっとしているんだ。早くタオルを用意しろよ。ったく」



「なんて気の利かないやつなんだ」

と、ぶつぶつと文句を溢す萩に、

「どうして余所者のお前が仕切るんだよ」

と、牡丹は愚痴を返しながらも、奥からタオルを持って来る。



「ほら、紅葉、タオルだ。竹郎も使うだろう」


「おお、サンキュー。悪いな」


「ちょっと、紅葉。アンタ、濡れ過ぎじゃない? 服なら貸してあげるから、風呂に入って温まって来なさいよ。お湯、まだ冷めてないと思うし、コイツ等なら私が見張っているから」


「おい、牡丹の妹。見張っているって、まるで俺達が覗くみたいな言い方をするな」


「なによ。さっき……」


「わー、わー、わーっ!

 ほら、紅葉さん。牡丹の妹の言う通り、早く温まった方がいいですよ」



 菊の声を遮るよう、萩は紅葉の肩を掴み、浴室の前まで押していく。そんな二人の姿を牡丹は見送りながら、次々と増えていく人数にますます騒がしくなりそうだと。


 外の天候同様、そのことが容易に想像でき。牡丹は一人、深い息を吐き出した。

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