第2話 アールヴの魔術書

「はぁ、はぁ……」


 帰り道も、慎重に慎重を重ねて歩きながら、ひたすらに逸る気持ちを抑えて俺は屋敷へと戻った。

 そんな俺の手の中にあるのは、アールヴの魔術書だ。魔術書そのものが膨大な魔力を持つとさえ伝えられるアールヴの魔術書は、その存在感も凄まじい。

 すぐにでも内容を確認したい。だけれど、学園で学んだだけの古代アールヴ語は、極めて膨大な古代アールヴ語の、ごく一部に過ぎないのだ。

 これほど膨大な魔術書を解読できるほど、俺は古代アールヴ語に明るくない。


 決して傷つけてはならない、としっかり持って、縄梯子を再び登る。

 魔術ばかりでろくに鍛えていない俺の体は、それだけで肩で息をするほどの疲労感を覚えていた。それは、手元にアールヴの魔術書が存在するという緊張感もあってのものだけれど。

 かび臭い洞窟から、元いた埃っぽい執務室へと戻る。


「ふぅ……」


 親父がこの扉に気付いていたのか、いつからこの扉が封印されていたのか――そのあたり、俺には分からない。

 だけれど、まるで未曾有の危機に陥った俺を救うかのように、このアールヴの魔術書が現れたのだ。過去、魔視サーチを使うことができた者が先祖にいなかったのだろうか。

 どちらにせよ、俺にはとってはありがたいものである。心から先祖に感謝するだけだ。


「とりあえず、閉めておくか。もう何もないだろうし」


 洞窟の中は一本道で、他に入れそうな部分はなかった。

 俺の体では通ることのできない横穴はあったけれど、さすがにそこを通り道にしているわけがないだろう。

 結局、このアールヴの魔術書と氷漬けのアールヴ女性以外には、お宝らしいものは見つからなかったし。


 恐らくあの洞窟は、アールヴにとっての神殿だったのだろうと思われる。

 森の神メルトルージュを信仰していたというアールヴ。

 一般的に信仰されている人の神と異なり、森の神には厳しい戒律があるのだと聞く。現在も、他国の一部では森の神を信仰する部族もあるらしいのだ。そんな森の神メルトルージュの神殿は、『決して風雨に晒されることのない場所』に作られなければならないらしい。

 ゆえに、洞窟の奥――雨風を受けることのない場所に建造されたのだ。

 何故そんなところにこの魔術書があり、アールヴの女性が氷漬けにされていたのかはさっぱり分からないが。


 俺はひとまず地下への扉を閉めて、そのまま絨毯をかける。それだけでもう一度埃が立ち、軽く噎せ込んだ。

 これで元通りで、何の問題もないはずだ。


「ふぅ……」


 逸る気持ちを抑えながら椅子に腰掛け、机の上に魔術書を広げる。

 皇帝陛下に仕える大賢者ならば、おそらくこのまま読むことができるのだろう。だけれど、俺の語学力ではさっぱり分からない。『炎』とか『月』とか簡単な単語くらいは見て取れるけれど、それだけだ。

 かといって、これを誰かに解読してもらう――それは、愚の骨頂である。

 アールヴの魔術書を持っているなどと、誰にも知られるわけにはいかないのだ。偽物ですら多額の金銭で取引されている現状において、本物のアールヴの魔術書を持っていると知られてしまった場合、間違いなく盗人が入るだろう。本物のアールヴの魔術書ならば、軽く金貨五千枚ほどの価値を持つのだから。


 つまり、俺がこの魔術書を解読するまでは、誰にもこの存在を知られてはならない。

 ならば、俺が自分で解読するしか方法はないのである。


「よし」


 立ち上がり、そのまま俺は隣の部屋へと赴く。

 隣の部屋は、もともとエドワード兄さんの部屋だった。近所のパン屋の娘と駆け落ちをし、そのまま行方を眩ましてしまったために、ありがたく俺の部屋にするつもりだったのである。俺の元いた部屋よりも三倍くらいは大きいし。

 ここでならば、存分に魔術の研鑽ができると、そう考えていたのだ。だからこそ、学院で使っていた魔術書や、ちょっとした専門書など魔術関係の資料は持ってきていた。

 もっとも、これほど領地の財政が酷いものだとは全く想像していなかったけれど。このままだと、俺は魔術の研究どころか明日の食事をも知れない状況になってしまう。

 子供の頃から、決して裕福な家庭じゃないとは思っていたけど、まさかこんなにも赤字だとは思わなかった。


「ええと……これだな」


 そんな俺の荷物の中から、古代アールヴ語辞典を取り出す。

 研究者がまとめた、古代アールヴ語の単語が網羅されている辞書だ。ずっしりと重いそれは、学院に入学する者は全員が購入しなければならないものでもある。一応授業内容に、古代アールヴ語があったからだ。

 これを用いれば、どうにか解読することができるかもしれない。


 改めて再び執務室へ戻り、アールヴの魔術書の横に辞典を置く。

 分厚い辞典にも負けないほどに、アールヴの魔術書の存在感は巨大だ。特異魔術――魔術の極みに位置するそれを手にしたことが、俺の高揚を一気に上昇させる。

 これを解読し、理解し、その本質を見極め、俺自身の中で昇華させることによって、俺は特異魔術を扱えるようになるのだ。

 椅子に座り、己に気合いを入れて。

 この未知なる魔術書の解読に挑む。


「やるか……!」


 俺が急遽後を継がねばならなくなったフリートベルク伯爵領は、大赤字だ。

 これから何かしらの金策をしなければ、領地は回らないだろう。それこそ、冬を越せない農民たちが蜂起してくるかもしれないし、私兵に給金を払うことができず解散してしまうかもしれない。

 だけれど、そんな領地の状況など、今はどうでもいい。


 今はただ、一人の深淵を目指す魔術師として。

 俺、ジン・フリートベルクは、アールヴの魔術書に挑むのだ――。

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