第62話 ベアトリーチェ・アングラードの憂鬱
ベアトリーチェ・アングラードは、武門の名家アングラード伯爵家の三女である。
祖父はかつての騎士団長、父は現騎士団の副団長、三人いる兄はそれぞれ騎士団に所属しており、一番上の兄は既に大隊長の座にあるという武の名家だ。
そして、伯爵位を賜ったのはベアトリーチェから遡って四代前であり、それも戦働きに対する報償として叙爵された。そのため普通の貴族とは違い、武において長けた者しか評価されないという不思議な家柄である。
ゆえに、ベアトリーチェにとって日常の鍛錬は当たり前のことだったし、剣術や槍術、徒手格闘など戦場で役立つ技術を学ぶことは、当然のことだった。元よりネッツロース王立学院に入学したのも、戦闘技術と魔術学の授業があるからだ。
現在のところ一般教養から始まっている授業ではあるが、今後は戦闘技術や基礎魔術などのカリキュラムに移行する。そして、その内容をしっかり学び、将来的には女騎士として活躍するのがベアトリーチェに与えられた道である。
だから、毎日自室で鍛錬を行うのも、彼女にとっては当然のこと。
「……」
「……ねぇ、ビーチェ」
ベアトリーチェと同室の娘――ハイドランド伯爵家の娘、ジュリアがそう話しかけてくる。
授業を終え、自室に戻り、ベアトリーチェがまず行うのは腕立て伏せだ。一日でも鍛錬を怠ると、取り戻すのに三日かかる――そんな父の教えを忠実に守って、ベアトリーチェは今日も鍛錬に勤しんでいるのだ。
そして、ジュリアの話しかけてくる声は、そんなベアトリーチェの背中から。
腕立て伏せをするベアトリーチェの背中に、乗っているのである。
「ふ、ぅ……どうかしたか、ジュリア」
「ううん。なんだか、悩んでるように見えるから」
「……そう見えるか?」
「ええ。短い付き合いだけど、なんとなく」
ベアトリーチェと同室のジュリアは、いい意味で奔放な女性だった。
最初、女にしては厳つく背が高く、横幅も大きいベアトリーチェは、間違いなく同室の女性に嫌われると、そう思っていた。
だが実際のところ、初めてジュリアと会ったとき、「へー。大きいのねー」くらいで済まされたのだ。これはベアトリーチェにとって、嬉しい誤算だった。
ジュリアは決してベアトリーチェのことを馬鹿にしないし、その容貌を笑ったりしない。そしてこんな風に、負荷を上げるために背中に乗ってほしいと言ったら、嫌がらずに乗ってくれるのだ。
そんなジュリアだからこそ、分かったのだろう。
ベアトリーチェが今、悩んでいることに。
「友人が、心配だ」
「誰のことを言ってるのかは知らないけど、そんなに心配なの?」
「ああ……思えばあのとき、わたしは手を貸すべきではなかったのかもしれん」
「ふぅん……」
ベアトリーチェは、後悔している。
いつだったか、寮母――ジャネットの部屋を物色するということになり、リリシュに協力を要請されたのだ。寮母は必ずクロであり、部屋を探せば間違いなく横領の証拠が見つかるだろう、と。
最初は止めたのだけれど、リリシュは聞く耳を持たなかった。既にテヤンディに染まってしまった彼女は、ベアトリーチェの言葉程度では止まらなかった。
仕方なくベアトリーチェが手伝い、少しでもリリシュに危険がないようにと、そう考えて協力したのだが――。
「ジュリア」
「ええ」
「法を犯そうとしている友人を見かけたら、お前ならどうする」
リリシュは、子爵令嬢を四人集めて言っていた。
伯爵令嬢を一人、いじめてほしい、と。
いじめというのは、つまるところ差別であり迫害であり暴力だ。これが学院の外であるならば、罪に問われるべきものである。
それを、唆しているリリシュ――正直、信じたくなかった。
「別に、放っておくかな」
「……放って、おくのか?」
「ええ。法を犯す……まぁ、殺人とかはさすがに止めるかもだけど、本人がそれをやろうとしてるわけでしょ? それが法に触れると分かってて、それでもやろうとしてるんでしょ?」
「あ、ああ……」
「ならそれが、その友達にとっては必要なことなんでしょ。犯罪はやめろ、って外野が言ったところで、それを犯罪だと理解してやろうとしてるんだから、止まるわけないわよ。だったら、遠巻きに見てるだけでいいんじゃないの? 私はもう、今後関わらないようにするけど」
「む……」
ジュリアの言葉は、冷たいが確かにその通りだ。
リリシュは最初から、それが悪事だということを分かってやっている。分かって指示をしている。
かつての彼女は、学院でも最下級の存在だった。
下級貴族だと馬鹿にされ、階段から転がされ、配られた資料を隠され、嘆いていたリリシュ――たまたま後ろにいたこともあって、ベアトリーチェは階段で彼女を助けた。
それからも、リリシュのことは友人として、見守ってきたつもりだ。何かあれば相談には乗るつもりだったし、金で困っているならばベアトリーチェが融通しても構わないと、そう考えていたのだ。
彼女が変わってしまったのは――。
「友人関係というのは、不思議なものだな」
「どういうこと?」
「わたしにとって、ジュリアは気を遣わなくていい友人だ。だが、わたしはリリシュ嬢のことも、同じく友人だと思っている。だというのに、最近は彼女に気を遣ってばかりだ」
「まぁ、友人関係もいいものと悪いものがあるからね。同室になった相手が誰かによって、割と人生変わると思うわよ。私はビーチェで良かったと思ってるけど」
「わたしもだ」
いい友人関係。
悪い友人関係。
リリシュを――下級貴族であり、差別される立場だった彼女に牙を与えたのは、間違いなくテヤンディだ。彼女を差別と侮蔑と暴力から救ったのは、間違いなくテヤンディだ。
そして同時に、テヤンディはリリシュを悪い方向に染めてしまった。
全てはあの日。テヤンディが、リリシュに対して銀貨を請求したときに。
リリシュは、金という――テヤンディという毒に、染まってしまった。
「ありがとう、ジュリア」
「ええ。それじゃ、降りるわね」
「わたしは、少し出かけてくる」
「ええ。私は先に寝てるわ」
鍛錬で火照っている体のままで、ベアトリーチェは部屋から出る。
そのまま向かうのは、ベアトリーチェ自身は部屋番号を知っているだけの場所。
どこか距離を持って接していたベアトリーチェは、今までその部屋を訪れたことはなかった。
こんこん、とベアトリーチェは扉を叩く。
中から「どうぞ」と聞こえてくると共に、ベアトリーチェは扉を開き。
「失礼する、テヤンディ嬢」
「こりゃどうも、ベアトリーチェさん。そろそろ来る頃かな、って思っていましたよ」
そこは、テヤンディとリリシュの部屋。
だが今、その部屋にいるのはテヤンディただ一人。
尊大に、寝台に腰掛けたままで、テヤンディはベアトリーチェを見て。
「幸い今、リリシュさんはおりません。腹ぁ割って話しましょうか」
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