第145話 ガム(前編)
今日は午後から雨が降っていて、放課後の今は、どんより、とした暗い灰色の雲が空を覆っている。
電気を点けないと教室も廊下も薄暗くて、多少の
しとしと、とした雨粒の音も窓に鳴って、俺は天文部の部室の扉を開けて──すぐに閉めた。
………………俺は本当にタイミングの悪い男だとつくづく、思う。
そう閉めた扉の前で目を瞑って、うわぁああああ、とひとしきり悔いていたら、がらっ、と扉が開いた。
「……入んなさいよ」
天文部の部室にいたのはミズタニ先輩だ。
先輩の目は赤くなっていて、ずっ、と小さく鼻を啜っている。
そう、彼女が泣いているのを見てしまったのだ。
「……い、いや──」
「──入りなさい」
二度目の強い言い方に仕方なく部室に入った。
何故もう引退したミズタニ先輩が部室にいるのか、というか、鍵は俺が開けたというのにどうやって入ったのか。
そんな事より、もう聞こう。
「……何かあったん、すか?」
「見ての通りよ」
答えはすぐに返ってきて、俺は本棚の上にバッグを置いて近くの椅子に座った。
ついでに後ろ向きになって棚から部活日誌の冊子を取る。
ミズタニ先輩は隣の椅子に座っている。
まとめたカーテンに寄り掛かって項垂れていて、まだ鼻を啜っている。
……こういう時ってどうすりゃ……っていうかミズタニ先輩が泣くとか一大事的な……いつも澄ました顔でたまに適当な人なのに。
怖い、って言い方もあれだけど、そういう先輩が泣いてる、とか、泣くためにあんま人がいないここに来たのか、とか……。
大変な気まずさを感じつつ、俺はポケットから板のガムを取り出した。
紙を剥くと、チェリー味の濁った赤色が出てきた。
「……気が利かない後輩ね」
ミズタニ先輩が小さく言った時、二回噛んだガムから甘酸っぱい味が滲んだ。
「はい?」
「気が利かないわねって言ったのよ」
だから出て行こうとしてたんですけれどね? とは反論させてくれないミズタニ先輩の睨みに俺は黙る。
「……ごめんなさいね。変なとこ見せて」
あのミズタニ先輩が謝った。
あのミズタニ先輩が、謝った!
「……先輩って謝る事出来たんすね」
「はー?」
「あ」
またやってしまった。
下手な事を言わないように気をつけていたのに、ものの数秒で思ったまんま言ってしまった。
しかしこれはミズタニ先輩のせいでは、と言い訳をしてみる。
だってこういう先輩を見たのは初めてだからだ。
先輩と後輩になってから、一度だって見た事がなかったからだ。
俺はガムを緩く噛む。
「……はぁ、冗談よ」
「え、さっきの──」
「──わたしだって謝れます。それじゃなくて、気が利かないだとか。もう見られちゃったし気になって当たり前よ」
気にならないって言ったら嘘になる。
「まぁ、ちょびっとだけ」
「ちょびっとかよ」
つっこまれた。
けれどミズタニ先輩は少し笑った。
横目で見てはいるものの、続きは何を聞けばいいか。
もう泣いてはいないようだけれど、ぼーっ、と窓の外を見ている。
「ふぅ……落ち着いた。彼女とは上手くやってる?」
唐突だった。
「ま、まぁ、そこそこ──」
「──めちゃめちゃ良いのね」
先輩には敵わない。
すると頬杖をついてこう呟いた。
「いいなぁ……わたしもそうなりたい」
「え? 先輩って彼氏いましたっけ?」
「彼氏じゃなくて、許嫁がいるって話をしたでしょう?」
「いっ!? え!? あれって冗談じゃなかったんすか?」
確か、俺とカトーと中庭にいた時、ミズタニ先輩がそんな事を言っていた。
完全に場を和ませるの冗談みたいなものだと思っていた。
あれ以上は話をさせてもらえなかったし、自分の事でいっぱいいっぱいだったから、それから今まで忘れていたくらいだ。
「冗談でも嘘でもないわ。時代錯誤も
そう言ったミズタニ先輩は哀しそうに、無理に笑っていた。
笑わなきゃやっていられない、そんな風に。
ミズタニ先輩は俺が聞かなくても、ぽつり、ぽつり、と話し出した。
この話をしたのは俺が初めてらしい。
おそらく、誰かに話したいほどにため込んでいたのだと思う。
「……逃げるとこ、なくなっちゃった。わたしは恋で相手を決めたかった。でもそれが許されないの」
恋をしたい。
ミズタニ先輩は俺を見ている。
まつ毛が濡れた目から、俺は顔を逸らした。
「……じゃあ、したらいいじゃないですか」
「ふっ……誰かわたしを連れ去って──なんてね。無理か」
ああ、と思った。
先輩の、なんてね、は──。
「──先輩は誰かで動く人じゃない、って自分でわかってますよね」
ミズタニ先輩は頬杖をやめて驚いたように背筋を伸ばした。
先輩の、なんてね、は嘘だ。
俺が知る限りの彼女は、こんな自分を偽る弱音は吐かない。
そんな弱音を吐いてほしくないとも思った。
「……クサカ君はずっと前から生意気ね」
「ありがとございます? です」
「合ってるわ。褒めたんだもの」
悪戯に微笑んだミズタニ先輩は、わたしも、とポケットから板ガムを出して食べた。
少しだけでも俺が知る先輩らしく? 戻ったっぽい。
その時、がらっ、と部室の扉が開いた。
「──イツキ、ここに……」
俺と先輩は扉の方を見ている。
ミズタニ先輩の名前の、イツキ。
そう呼んだのは、様々の部活の顧問を引き受けている、天文部の顧問でもある先生だった。
そして先輩は、ひそり、と俺に衝撃的な事を耳打ちした。
「──あれが私の許嫁のオオツキ先生よ。内緒にしてね」
そう、聞こえた。
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