第98話 バーチ・ディ・ダーマ(後編)

 小さくてやや丸いお菓子は、一口サイズのチョコサンドクッキーという感じで美味しそう。

けれど私は淹れてくれたブラックの珈琲を飲むだけだった。

口の中に広がる苦さはほっとして──私は言った。


「……とても、腹が立っているの」


「何で?」


「むかつくのとか、苛つくのとか」


「誰に?」


 誰。


「──


 私は自分の腹が立っていた。

私は、私の事ばかり。


「なのに……嬉しいのも、あるの」


「ふーん? 教えて?」


 ノムラさんは聞き上手だった。

だから私は何の躊躇いもなく話せた。

私の話と、男子の話、そして私と男子の話。

それから、私の話を。


 ノムラさんはお菓子を食べながら相槌を打つ程度で、ずっと聞いてくれた。

さくっ、と齧る音と珈琲を飲む音もまるで相槌だ。


「私に口出しは出来ない、クサカ君と後輩さんで決めた事だから。権利、なんて言い方は変かもしれないけれど、そういうの」


 そういう、の。

私と男子の関係は難しい。

だからってわけじゃないけれど、けれど、って思ってしまう自分がわからなくなっていた。

もやもや、としたものが胸にあって、上手く飲み込めない。

消化も出来ないでいて、溢れてしまって、逃げてしまった。


「──あのー、居たたまれないんで、俺、席外します。チョウノは置いてくんでごゆっくり」


 背が高い一年生、タチバナ君は返事を待たずに部室を出て行ってしまった。

女の話はきつかったか、悪い事をしたな、と置いていかれた背が小さな一年生、チョウノさんは困った様子で私を見る。


「ごめんなさいね、チョウノさん」


「い、いえっ……あの、その──」


「──お、チョウノちゃん、何かある感じ?」


 今までの話は一年生達も聞いていた。

聞こえてしまった、という方が正しいだろうか。


「うっ……えと、どうしてそんなに我慢、するのかなぁ、って思って、ですね」


 我慢、とは考えていなくて、続けてチョウノさんを待つ。


「だ、だって先輩は、その人の事、好きなのに」


 チョウノさんは言いながら顔が真っ赤になっていた。


 好き。

私はクサカ君の事が──。


「──ええ、好きよ」


 私は初めて、声に出した。


 ※


 ──聞いてしまった。

聞こえてしまった、という方が正しいかもしれない。


 俺は今、旧校舎の部室として使っている生物部の窓の外、窓の下に座っている。

女子の声が聞こえて、抱えた膝に顔を隠した。


 やばい、どうしよ、嬉しいとか、どうしよ。


「──何してんすか」


 と、横から随分重い声が聞こえた。

ジャージ姿の背が高い奴で、するとコセガワが、しーっ、と人差し指を立てて座らせる。


「……ども。先輩が今の話の人ですか?」


 コセガワが簡単に説明をしてくれる。

俺はもう何て言っていいかわからなくて、また盗むように聞き耳を立ててしまっていた。

女子の、俺が見えなかった、部分を。

野郎三人、窓の下に隠れて女の子達の話に耳を澄ます。


「……どういう感じ?」


 コセガワが、ひそ、と聞いてきた。


「ど、どうって……やばい」


「やばいって?」


「わ、わかるだろ?」


「さぁ? ちゃんと言わないとわからない」


 嘘つけ、と俺は睨んだ。

けれどそうだ、濁してばかりじゃ伝わらない。


「……嬉しい、感じ──って、その顔何だよお前ら」


 俺の両隣に座る二人は、両極端の顔をしていた。

コセガワはにまにま顔で、タチバナって名前の生物部の一年は、うわぁ……って顔をしている。


「な、何だよ一年」


「今しがた話を聞いたばかりですけど、どの口が言えるのかなと思いまして」


 すんません部外者が、とタチバナは軽く頭を下げる。

しかし続けて質問が来た。


「で、クサカ先輩はどうなんですか?」


「どう、って……」


「好きか嫌いか、どうもないか」


「どうもないって、タチバナちゃんきっついの入れるねー」


 コセガワの言う通り、どうもない、ってきつい。

けれどそれは絶対にない。

今までどれだけ女子に動かされてきたか、俺だけが知ってる。


「──好きだよ。こういうのは、初めてだ」


 やっぱり恥ずかしくて、膝に顔を埋めたまま俺は言った。

そしてこうも言った。


「……謝りた──」


 ──と、その時、頭の上からこう聞こえて、俺は顔を上げた。


 ※


「──謝ってほしいわけじゃないの。そんなの、いらないの」


 私の話をノムラさんは頬杖をついて、チョウノさんはカップを両手で持って聞いてくれている。


「ま、わかる。関係ないもんね」


「そうなの、私は関係ないの」


 私は、部外者。


「謝る事なら最初からしなければいいのに、馬鹿なのかなぁ……」


「あっは! チョウノちゃん言うねー、好き好きそういうの。ってか同じ事思った!」


「ご、ごめんなさいっ。でもでも、謝りたいって事は後ろめたいとかそういうとこがあるからで……恋愛絡みだから、それってつまり、クラキ先輩は好かれてる、って事になります、よね?」


「……腹が立ってるのはそこなの。嬉しいって気づかされちゃったんだもの」


 なのに、なんで、って思ってしまう自分もいる。

最終地点は、ここになってしまう。


「じゃあクサカに謝らせておけばー?」


「嫌よ」


 絶対、嫌。


「ど、どうしてですかっ?」


 私はブラックの珈琲を見ながら言った。


「……悔しいじゃない」


 


 少し揺れる珈琲の表面は、私の裏側を映していた。


 ※


 じゃあどうすればいいんだよ!! なんて言えるはずもなく、俺はコセガワの肩に寄り掛かっている。


「……クサカ先輩の自業自得としか」


「だね。いやぁ、シンプルつ複雑」


「後の祭り、っていうやつですか?」


「これはでしょ」


 今の上手いっすね、とタチバナとコセガワは俺をそっちのけで談笑する。

その通りと思う俺もいて、文字通り身動きも出来ない。

目の前に生えまくった草が風に揺れている。


「……虫のいい話ばっかだなぁ、俺」


 二人は間髪入れずに頷いた。


「まぁ、お互い様、かな」


「……俺が悪い」


「それでもいいけど、これって別に勝負とかゲームじゃないと思うよ?」


 勝負、ゲーム?


「……意地っ張りもほどほどに、ってコウさんは言いたいんだと思います」


 コセガワコウタロウのコウでタチバナはコセガワをそう呼ぶ。


「そそ。さっすがチョウノちゃんの彼氏のタチバナちゃん。経験値あるねー」


 それには触れないでください煩いです、とタチバナは険しい顔になった。

そしてこう言った。

コセガワが言う通り、経験値のある助言。


「大事ですよ、伝えるって」


 俺は教えてもらってばかりだ。

実践はまだで、びびっている弱虫で、臆病者だ。


 背にした窓から女子達の声が聞こえてくる。

少し楽し気で、やっぱり悩んでいて、時々結構、きつい言葉が飛び交う。


「……女ん子って、めんどくせ」


「それも含めて可愛いじゃない」


「確かにめんどくさいですけど──」


「──めんどくさくて悪かったわね?」


 四つ目の声に俺達はゆっくり振り返り、見上げた。


 ※


 窓を隔てて、私と男子は向い合っている。

コセガワ君とタチバナ君に目をやると、二人とも少しずつ気まずそうに離れていった。


 ふむ、状況把握。

きっと話はほぼほぼ聞かれていた事でしょう。

クサカ君はどうしていいかわからないって感じでしょう。

私も、どうしていいか迷っているわ。

とにかくさっきの──。


「──めんどくさい?」


「あっ、と、ご、ごめ──」


「──そうじゃない。いらないわ」


 私が欲しいのはそれじゃない、ごめんなさいは私の方。

もうめんどくさくて──


 私はテーブルの方に戻ってお菓子を一つ手に取った。


 ※


 女子が俺から遠ざかった、すると戻ってきたコセガワが軽く背中を小突いて、何故か笑って、また離れた。

ここに居てくれ、なんて意気地がない事も思ったけれど、我慢した。

そして、こういう我慢が俺にはなかったなと、気づいた。

遅くて、遅すぎて、全部ひっくるめると───

よし、ぶん殴られよう、とか思った。


 ※


 ノムラさんとチョウノさんはいつの間にか部室からいなくなっていた。

きっと気を利かせてくれたのだと思う。

後日、お礼のお菓子でも持ってきましょう。

さぁ──もう、私と男子だけだ。


 ※


 女子 ── 男子。


 窓を隔てて私と男子は向かい合った ──窓を隔てて俺と女子は向かい合った。


 ── 目線が同じで、目が、合った ──


「あなた、めんどくさいわ」


「……そっちこそ、めんどくせぇ」


「よく言えるわね」


「言わないとわかんねぇって、覚えた」


「それは良い心がけだわ。けれど今は喋らないで。ついでに目も閉じて。


 女子がわからない事を言っている。

本当に殴られるのか、と少しびびった。

けれど何もないよりいい、と俺は言う通りに目を閉じた。


 私は丸いクッキーを一つ、持っている。


「……待たせて、ごめんなさい」


 俺は少しを置いて、軽く首を横に振った。


「臆病者で、ごめんなさい」


 それは俺の方でもあって、お互い様。


「けれどやっぱり私、しか出来ないみたい」


 と、俺の口に何か当たった。

感触的に多分、女子が持っていたまん丸のクッキーだと思う。

ぐいぐい、と押し付けてくるので、俺は軽く口を開けてそれを食べた。


 それから、胸倉を掴まれ、引き寄せられて、俺はあまりの事に目を開けた。


 開けて、しまった。


「──馬鹿。見ないでって言ったのに」


 私は、男子にキスをした ── 俺は、女子にキスをされた。


 ── 一瞬だけ、触れるか触れないかくらいの、そんなキス ──


「……私を、よろしく」


 私は微笑んだ。


 俺は驚いて腰が抜けて、その場に座り込んだ。

そして口の中の甘いを飲み込んで、女子の、甘いを感じながら、答えた。


「お……俺を、よ、よろしく」


 臆病者と勇者の中間。


 ── 私と俺は、始めようとしていた ──



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