第78話 オランジェット(後編)

 オレンジの皮は甘くも独特の苦みを残していて、リキュールの香りが鼻をくすぐってきて、ビターなチョコレートは珈琲の味を少しだけ残してる。


 私は、嘘をついている。


 もうそろそろ英語のノートの写しが終わる。

ノムラさんのノートを借りたのだけれど、とても丁寧で綺麗だ。

行動や発言や格好は大胆なのに、なんて借りてる手前黙っておきましょう。

有り難い事にノートの写しだけで今日の授業分の勉強は必要なさそうだ。


「ノムラのノート凄ぇなー。無茶苦茶やってる奴なのにな」


「ちゃんとしてるから無茶苦茶出来るんでしょうね」


 男子は、ん? というような顔をして、なるほど? とやっぱり疑問形の顔をした。


 私もクサカ君くらいわかりやすかったらどうなっていたのかしらね?


「……終わった。あなたは?」


「終わらない計算中」


「間違ってるから終わらないのよ。六掛ける八が四十六になってるし」


 男子、机にて撃沈。

私はオランジェットを食べて、浮上──席を立った。

ノムラさんの机にノートを返すためだ。


「そうそう、私、先に教室を出るわね」


「ん? 何かあんの?」


 返却終了、自分の席に到着。


「書道部に用があるの」


 と、男子の消しゴムをかけていた手が止まった。

この前カトー君が伝えてくれたのが、用、だ。


「あー……あの一年か──」


「──やーい、怒られてやんのー」


「なっ!? くっそ、凹むわ」


「冗談よ。ちゃんとお仕置きしておきます」


「……何しでかす気だ?」


「物騒な物言いね。そうねぇ、カトー君が嫌がる事を全力でしましょうか」


 カトー君の嫌がる顔を想像するだけで楽しいわ、とにやけていたら男子がまた聞いてきた。


「……何すんだ?」


 そうねぇ──。


「──全力で抱き締めようかしら」


 そう言うと男子はつまもうとしていたオランジェットをお箸から落とした。

そしてすぐにこう言った。


「それ、駄目」


 むすっ、としたようなふくれっ面が楽しい。


「ふふっ、するわけないじゃない。私が嫌だもの」


「なら、いいけど……冗談が過ぎるって」


 あら……これってもしかして本気で言ってるの? 焼いてるの?


 やっぱり、楽しい。

あなたとのな話は。


 すると男子が自分の口の端を指で差した。


「チョコ、ついてる」


 やだー恥ずかしー、と私はバッグから鏡を出した。

完成寸前まで作ってくれて、完成させた銀色のコンパクトミラーだ。

最後のてんとう虫のパーツの位置が難しかったけれど、今は満足、お気に入りになった。


「──デコ、ありがとう」


「ん。そういうのやり始めると飽きないっぽい、俺」


 それは間違った計算式の行数からも見てとれる、と言ったらまた怒りそうなので言わない。

私が覚えてるって言っても、怒りそう。


 けれどもう、後戻りは出来ない。


 私は、ぱたん、とコンパクトミラーを閉じた。


「看病? してくれてありがとう」


「何だよ、改まって」


「こういうのはきちんとね、言わないと」


 男子は頬杖をついてオランジェットをまた一つ食べる。


 こんな顔で、私は見られてた?


「……おかげ様で全回復、全快したわ。なので、もう一つお礼をします」


「ふん?」


 ちゅるる、と緑茶を飲む男子は訝し気な顔をしている。

まったく、私を何だと思っているのかしらあがめなさい。

これはお仕置きが必要な案件じゃないかしら、と私は思いついた。

いや、でも、これは、と続くけれど──。


 ──クサカ君が同じ位置にいてくれるって、言ってくれたから。


「……手を上げろ」


 指をピストルの形にして男子を差す。


「はぁ?」


「いいから両手を顔の横に並べるように上げなさい」


「こ、こう?」


 そう、と言って私はてんとう虫を軽くなぞって、バッグに入れ直す。

筆箱とノートもバッグに入れて、教室を出る準備は万端。


 逃げる準備は、万端。


「目を閉じろ」


「お、う、うん。何だよ物騒だな……」


 そう、これは物騒な事。


 クサカ君を止めてしまったから──、お礼です。


 私にしてくれたファーストキスは、少しずれているような気がした。

口の端のとこ──左側だった。

私は男子の大きな右手に近づく。


 オランジェットの、甘い香りが後押ししてくれた。


 ──えい。


 一瞬、一瞬だけ、私からの初めての、ちゅー、を男子の手のひらに止める。


「…………へっ!?」


 まだ開けていいと言っていない目を開けた男子が変な声を出して驚いている。

私も多分、驚いた顔をしている。

けれど、頑張れ私。


「これで同じスタートライン。いい? 約束破ったらその指、ぶち折ってやるんだからね?」


 そう言い残して、私は教室から逃げたのだった。


 頑張ったわ、私!

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