第77話 オランジェット(前編)

「──正解。おめでとう」


「あざーっす」


 放課後の教室の廊下側、一番後ろから二番目の席で、俺は後ろの席である女子の方を向いて勉強中である。

そろそろテストなのだ。

んーっ、と背伸びをして首を左右に振って、ごきごき、と鳴らす。


「お前は相変わらずノー勉強か」


「ええ、余裕よ」


「休んだのになー」


 女子は今日、半日だけ学校を休んだ。

聞いたところ、無理矢理病院に連れていかれたのだとか。

病院嫌いだって言っていたけれど、何はともあれ、正気に戻って良かった。


「あれも良かったけどな……」


「ん? 何?」


 聞こえなかったならそれで、と午前中の授業のノートを写していた女子はバッグから今日のおやつを取り出した。

飲み物はもう飲んでいる。

今日は緑茶だ。


「熱は?」


「ド平熱」


「意識は?」


「ド正常」


「……この前のは?」


 一瞬の、があってから女子は俺と見て一瞬、にやけて、こう言った。


「──ド変態」


 ドぉん!


「なんてね。あまり覚えてないの」


 何だよ、やっぱ覚えてないのか、と俺は、ほっ、としたようなものを感じた、ような。


「けれどありがとう。色々? と?」


 うん、まぁ、色々と──こっちもありがとう、ございます? っていうのは黙っておこう。


「それでお礼と言うわけではないのだけれど──はい」


 あ。


「どうぞ納めるといいわ」


 どういう物のやり方っつーか、言い方か、と苦笑いしてから俺は納めてやる。

っていうか、嬉しい。

病院の待ち時間に抜け出して買いに行ったのだとか。

ついでに今日のおやつも買いに出かけたらしく、有意義な午前中だったようで何よりだ。

それに何より──、のようで。


「私も新調したの。色違いー」


 携帯用のをくれた。

随分短い、と思ったら組み立て式で、握り心地の良い焦げ茶色の箸で、持ち手の先端には青い模様が一つ咲いている。


「クサカ君はリンドウの青い花の模様」


 へぇ、女子のはピンクいやつ。


「私のはカリンのピンクの花の模様。ふふっ、選ぶの楽しかったわ」


 そりゃ、何より。


「さんきゅ。悪いな、そんな大した事してねーのに」


「いいの。私がしたかったの」


 それに欲しかったし、と女子は新しい箸を組み立てた。


「そんで? 今日のおやつはこの箸で?」


「ええ、せっかくだし。オランジェットよ」


 チョコレートを箸で、か。


「いただきまー」


「いただきます」


 同時に細切りのそれをひと齧り。

ぐにん、とした食感のオレンジの皮は結構しっとりしていて、結構苦い。

チョコレートはかなりビターで、ほんのちょっとだけ珈琲の匂いもする。


「──大人味って感じだな、これ」


「リキュールのせいかしらね。子供の頃はこれ、苦手だったわ」


「あー、俺もだったわ」


 これもリキュールはかなり抑えてる方だけれどね、と女子は言い、また一つ食べる。

俺も今は美味しい、ともう一つ食べた。

この大人味は変に、くせ、になるというか、なった、というか。

いつからかはわからない。


 んー……俺のちょっと気まずいのとか、多分わかってねーよなぁ……ってか、覚えてないとか、マジか。

その方がいいっちゃいいけれど、良いのか悪いのかわかんねぇ。


 もう一度本当に覚えてないのか、と俺は女子をやや上目に覗く。

女子はノートの写しをしていて、もぐもぐ、と咀嚼しながら、さらさらさら、とシャーペンを走らせている。


 全く、わからない。

この前のは幻とか夢──なんて現実から離れるのは多分、逃げ。

というか、無理。

あんなの、忘れられるわけがない。


 ……俺が覚えてりゃいいのか?


「──良い匂いね」


 女子は、すーっ、と息を吸っている。

そしてオランジェットをまた一つ、箸で食べた。


「リキュール? の匂い?」


「チョコレートの匂いもそうだけれど、うん。大人になった気分?」


 酔うってこんな感じかも、と女子は微笑む。


「ははっ! いーや、クラキは逆な感じだっ──」


「──逆?」


 しまったぁ、俺の口ぃ。


「なっ、何でもねっす」


「もう、なーに?」


 また微笑む女子に俺は、人の気も知らねぇで、と苦くも甘いオランジェットをまた一つ食べるのだった。

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