第40話 クレームブリュレ(後編)
──明日、どんな顔をして会えばいいのかしら。
夏休み最後の日、私は自宅の和室で浴衣をしまっていた。
クリーニングした金魚柄のお気に入りの浴衣だ。
皺のないように畳んでいると、母さんが
「──あんれ、母さんがやっとくって言ったのに」
「ううん、いいの。着たのは私だし」
このくらい自分でやる。
ちゃんと仕舞いたかったから、というのもある。
「ところで母さん。そのルームウェア、私のなんだけれど?」
「うん、借りちゃった」
私達は同じくらいの背格好だからサイズは問題ないとしても、肩出しのオールインワンの着こなしはどうだろうか、と肩を竦める。
そして浴衣を
またいつか……ううん、来年ね。
静かに箪笥の引き出しを仕舞って、私は立ち上がる。
もう休み中の課題は終わったし、制服も部屋のカーテンレールに掛けてある。
「ちょっとご褒美しよっか」
「え?」
「父さん抜きで」
父さんは今お風呂中。
少しかわいそうな気もするけれど断る必要はなし、と和室を後にした。
焦げ茶色のキッチンカウンターを挟んで、私と母さんは椅子に斜めに腰を下ろす。
カウンターチェアーをくる、くる、と揺らせて私は待つ。
「はい、まーた父さんが買ってきてさ」
こっ、と置かれたのはカウンター台と同じような焦げ茶色の陶器。
銀色のスプーンを受け取る。
「お姉ちゃんが好きなクレームブリュレ」
そう、母さんは言った。
母さんはあまり、姉さんの事を言わない──話さない。
理由は父さんが泣いてしまうから。
私が、いるから──私も、避けていた。
「浴衣、着てくれてありがとね。久しぶりに……懐かしくて、嬉しかった」
金魚の浴衣は元々母さんが着ていたものだ。
それを姉さんが一回だけ着て、数年ぶりに私が着た。
それまで箪笥の奥に、眠っていた。
「……あのね母さん」
「んー?」
「浴衣、似合ってるって、言われたの」
「誰に? あ、男の子だぁ?」
母さんは陽気な声のままクレームブリュレの表面をスプーンで、かつんかつん、とつつく。
結構しっかりしたキャラメリゼ。
「男の人と……男の、子」
「うぇーい、二人もなんてやるじゃないのー! 父さんが聞いたら戦闘力上がりそ」
戦闘力、もとい父としてのオーラ的なものが跳ね上がる父さんの姿が目に浮かんで、んふっ、と笑ってしまった。
それから静かに、控え目にクレームブリュレの表面を割る。
この瞬間、好き。
かん、かん、りん、とキャラメリゼが割れていく。
その、一瞬の音。
好きな、音。
あの時、いちご飴が美味しかった。
けれど口の中いっぱいになってしまって、ちょっと恥ずかしかった。
そしたら、虫、と言われて慌てた。
本当は、きゃああああ、と可愛くも小煩い女の子っぽくそしてわざとらしい叫びを棒読みするという手もあったのだけれど言えなかった。
男子の指が、くすぐったかった。
クレームブリュレを一口、スプーンを舐めるようにゆっくり引き抜く。
ほろ苦さと、バニラエッセンスの香りが緩く、舌に溶けていく。
もう一口は、もうちょっと後。
「──なーに、どうしたの?」
「……何が?」
「顔。赤いよー?」
そう? と指の背で頬を触ってみる。
少しだけ熱いかもしれない。
あの時も、熱かった。
「明日から学校なんだから風邪引かないようにね。さーて、ドラマドラマー」
母さんは行儀悪くスプーンを咥えたままリビングのソファーに移動した。
私はキャラメリゼをつつく。
あの時、私は泣いた後だった。
泣き虫なのは父さんに似たのかもしれない。
嬉しい方だからセーフ、と言い訳はもうした。
けれど男子は、不意打ちだわ。
アメとか、いつもの感じがいつもよりこそばゆくて──優しい、感じがして。
私はもう一口を食べた。
甘くて、ほろ苦いを
そしてあの時と同じように目を瞑ってみた。
男子の大きな手はお面みたいに私を隠していて、それを思い出して口元が緩んでしまった。
だって隠される前の男子の顔は、真剣だったから。
小さな虫だったのか、一生懸命追っていたのか。
それから──。
私は何も見えなかった。
お面で、目を瞑っていて、手で覆われていたから。
もう少しでいちご飴を食べ切るかなぁ、と考えていた。
涙、隠してくれてありがとう、と思っていた。
──いちご飴の匂いと、りんご飴の匂いが、した。
それはさっきの、クレームブリュレがついた、口の端の場所。
あの一瞬は、何の、音だったのかしら。
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