第44話 エレナとグロイン侯爵



「……もしかして、私もそうなのでしょうか」



 気がつくと、私は口に出していました。慌てて手で口を押さえましたが、つぶやいてしまった言葉はもう戻りません。余計なことを言ってしまいました。

 何か、言わなければ。

 廊下の床面を見ながら焦っていると、侯爵様はちらりと私を見やり、少しためらってから口を開きました。


「あなたの生母は、伯爵夫人が用意した女性ではなかったそうだ。……出産後の間もない時期に亡くなったと聞いている」

「そうですか」


 私は、そう言うだけでやっとでした。

 頭が混乱していると言えば、その通りです。

 でも、そう言うことなのか、と納得する思いの方が強い気がします。お母様は私に無関心で、私は誰とも同じ色を持っておらず、お父様は少しだけ私に目を向けていました。

 ……早い時期から私が家に残って伯爵位を継ぐことになっていたのも、もしかして関係していたのでしょうか。


「やはり言わないままがよかっただろうか。今日の伯爵夫人の様子を見て、考えを変えたのだが……」


 侯爵様は足を止め、心配そうに覗き込んで来ました。

 金色の目がとても優しいです。


 ……そんなに心配しないでください。

 今の私は、お母様の愛情を期待してこっそり泣いていた子供ではありません。乳母のネイラは私のことを時に口やかましく、でもとても可愛がってくれました。

 それに、アルチーナ姉様はいろいろ面倒なことを押し付けてきましたが、いつも私に声をかけてくれました。寂しいと思わずに済んだのは、毎日お姉様に振り回されて、使用人たちが同情的で、ロエルがこっそり手伝ってくれたからです。

 私はにっこりと笑いました。


「そんな顔をしないでください。私は侯爵様が思っている以上に幸せに暮らしていましたから。それに……私はもう十六歳で、あなたの妻なのですよ?」


 私の言葉をじっと聞いていた侯爵様は、やがてほっとしたように微笑んでくれました。

 肩からも、手が離れました。

 それがとても残念で……私は思い切って侯爵様の腕に手を絡めてみました。仲の良い恋人や夫婦がしているような、密かに憧れていた腕組みです。


「このくらい、妻ならしてもいいですよね? アルチーナ姉様の結婚式の時に皆さんの前でしてみたいんです。緊張しないように、今から練習させてください!」

「……それは、構わないが」


 侯爵様は私の手を見下ろし、戸惑った顔をしました。


「あまり……人前でこう言う事はしない方がいいのではないだろうか」

「どうしてですか?」

「俺との離婚が難しくなる」

「も、もしかして、侯爵様は離婚をお望みですかっ?」

「いや、俺はそうは思わない。だがエレナ殿はまだ若い。いずれはもっと家柄の釣り合った相手と……」

「侯爵様っ! もっと妻である私を信用してください!」


 私は侯爵様を睨みました。

 本気で腹が立ったので、思い切り睨みました。


 でも……侯爵様はなぜか笑いだしてしまいました。


「なぜ笑うのですか!」

「失礼。だが……」


 謝りながら、でも侯爵様は堪えきれずに低く笑っています。

 笑い顔は素敵ですが、このままでは腹の虫がおさまりません。指先でぎゅっと腕をつねってみました。


「……! いや、本当に悪かった!」

「悪いと思っているのなら、今度、お食事にいらしてください!」

「申し訳ないが、それはやめておこう」


 ふと真顔になった侯爵様はするりと私の手を逃れ、すたすたと歩き始めました。

 遅れまいと、私は早足で追いかけます。まだ本気の歩調ではない侯爵様は、私が少し息を切らせながら横に並んで腕を掴むと、私に合わせたゆっくりとした歩きに戻してくれました。


「どうして食事をしていってくれないのですか? 好き嫌いが多いからですか?」

「俺はどんなものでも食べるし、あなたとの食事は楽しいだろうとも思っている。だが、伯爵邸での食事はだめだ」

「どうしてですか!」

「……酒を飲みたくなるからだ」


 しばらく口籠もってから、ぽつりとつぶやきました。

 意味がわかりません。聞き間違えでしょうか。首を傾げると、侯爵様は足を止めました。


「男は酒を飲むと理性が外れやすくなる。あなたも大人なら忘れないでいただきたい」


 ……えっと。それは、いったいどう言う意味ですか?

 訳がわからずに見上げていると、侯爵様の手が私の頬に近付きました。


「年若いあなたには触れないようにしている。しかしあなたは、どんどん大人の女性になっている。……以前は何とも思わなかったが、次は理性を保つ自信はない」


 硬い指先が、するりと頬を滑りました。

 侯爵様の指はイヤリングに触れて、離れました。いつの間にか、金色の目がすぐ近くにありました。侯爵様の吐息が鼻先に触れそうな気がして、私は思わず身を縮めてしまいました。

 近くにあった侯爵様の顔に苦笑が浮かび、大きな体は離れて行きました。


「そのまま、俺への警戒心を解かないでいてくれ。その方が俺には気が楽だ」


 そう言って、侯爵様は背を向けました。

 今度はすぐには足が動きません。青いマントがひるがえり、扉が開き……明るい光が見えました。


 いつの間にか、玄関の近くまで来ていたようです。

 外で何か会話をしている声がして、私は我に返って慌てて追いかけました。すでに馬の準備はできていたのでしょう。私が外に出た時、侯爵様はすでに馬上の人となっていました。



「姉君によろしく」


 そう言って、丁寧な礼をして。

 侯爵様は、そのまま馬を駆けさせて行ってしまいました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る