バッシャーン


 足を滑らせ再び桶の中に落ち、今度は全身ずぶ濡れになってしまった。


───


「全く!朝っぱらから!しかも御一人で何も告げず!気になって仕方がない御気持ちは分かりますが、一言お伝え頂ければ探し回る事は無かったのです」


 渋い顔で嗜める伊集院藤兵衛と睨む三郎から視線を外し、無言で乱法師は焼いたすすぎ(すずきの事)を口に運んだ。


「もう一度確かめて見たくなったのじゃ。幼子でもあるまいし、そんなに広い邸では無いのじゃから、少しくらい姿が見えぬくらいで大騒ぎ──」


 益々睨み付ける三郎の視線をまともに受け、言い訳仕掛けた口をつぐむ。


「幼子では無いと申されるのであれば、もう少し周りの気持ちを考えて行動して下さいませ。あのような騒動の翌朝、お姿が見えなければ心配するに決まっておりまする」


 乱法師は返す言葉も無く俯き、心底申し訳なさそうにぽつりと詫びた。


「……済まぬ」


 気楽な単の小袖に着替えてはいるが、髪はまだ湿った儘で、着物が濡れないように肩に手拭いを掛け、その上に黒髪を垂らしている。

 女子にしては短いが、下げ髪でいると、全くもって美少女と見紛う容姿なのだ。


「分かれば良いのです」


 誰にでも欠点はある。


 容姿家柄、人柄、賢さ、武芸、その他諸々の教養や武家の嗜み、成長途上とはいえ、どれをとっても完璧なのに、何故そんな事に気付かないのか、どうしてそんな事をしてしまうのかといった抜けがある。


 そのような欠点を一言で表すのは難しいが、強いていうなら天真爛漫な幼さと言うべきであろうか。


 つまり悪気無い素直な幼児に本気で怒れる人間は中々いないので憎めず許してしまう、或いは代わりにやってやろうという庇護欲さえ掻き立ててしまうのは彼の強みでもあった。


 今度は京のかぶら漬けを口に入れ、俯いた儘こりこりと噛み締めている。


「そういえば、何か見付けられたのですか? 」


 乱法師がずぶ濡れになった騒動で忘れていた、そもそもの発端を思い出して三郎が訊ねた。


「ぐっごほう、こほっこほっ──そう言えば鱗、鱗じゃ! 」


「落ち着いて水を飲まれませ!先ず落ち着いて! 」


 慌てて水を差し出す。

 咳が治まったところで興奮気味に語る通り、湯殿の桶の縁に置いたという小さな鱗を取りに行く事になった。


 だが湯殿の中を見て愕然とした。


「桶はどこじゃ?桶が無いではないか! 」


「はい、今日は天気がいいですから洗って外に干してあります」


 床掃除をしていた下男は不思議そうに答えた。


「何処にある? 」


「此処を出て右の脇の広いとこに置いてあります」


 急いで走って行くと、無論桶はあったが鱗は無かった。

 分かりやすい結果にがっくりと肩を落とす分かりやすい反応に、三郎が優しく慰める。


「小さな物と仰せでしたから下男が気付く筈はございません。ただ、乱法師様があったと申されるのでしたら間違い無くあったのでしょう」


 上手く励まされ、ぱっと上げた顔は母犬にすがる子犬のようだった。

 己だけに聞こえる声、己だけが目にしたあやかし

 追究しようにも記憶は曖昧にぼやけ、体調も近頃思わしくない。


 漸く見付けた証拠が流されたとあっては、最早信じて貰えないのではと不安だったのだ。


 三郎にしてみれば証拠がある無しは関係無く、奇妙な化け物が再び現れるかどうかの方が重要であった。


 しかし当の乱法師は本当だったと言ってくれる第三者を求めるばかりで、また襲われるかも知れないという警戒心は完全に失せてしまっている。


「儂の言う事を信じてくれるのじゃな」


 たった二人の家臣に信じて貰えただけで、すっかり満足して顔をほころばせている。

 そんな彼に、これから迫るかもしれない危険に対して用心しろと忠告する気に今はなれなかった。


 少し冷めてしまったが、白味噌仕立ての優しい味わいの味噌汁を飲み終え、軽く槍の稽古をして後、出仕の為の身支度を整える。


 小袖は玉子色(明るい黄色)の地に、鳩羽鼠、紫紺、銀朱(くすんだ朱色)の雲取りが踊り、それぞれの形の中は鹿子絞り、肩や袖、裾の辺りには少年らしく竹や流水模様。


 鴨の羽色(濃い緑)、雀茶(柔らかい茶色)焦げ茶の大胆な市松模様の帯をきりりと締めた。


 衣類の柄や色味に彼なりの好みはあるが、大方は侍女が用意した物をその儘身に付けている。

 金山にいた頃はもう少し簡素な柄を着ていたものだが、安土に来てから随分派手になったと密かに思っていた。


 それは派手好みで知られる信長の側に侍る小姓だから。 

 金山のような田舎とは違い都や堺にも近い都市にいるからという心遣い。

 或いは一度でも閨で愛でられた彼をより美しく魅せるという、些かお節介な考えがあったからかもしれない。


 ともかく気が急いて足の運びは自然と早まる。

 果心居士は本当に死んだのか。


 小姓達が控える部屋に入ると、表向きは普通に挨拶を交わすが朋輩達の視線は冷たく態度は余所余所しい。

 鈍感な彼でも気付くくらいだから、神経が鋭敏な者ならば視線が突き刺さるようだと感じた事だろう。


「荒木殿は見つかったのか? 」


 周りの悪感情など素知らぬ顔で訊ねてみた。


「ああ、お乱殿は一人だけ早く帰られたのだったな。出仕してから休んでばかり。今日ももう帰った方が宜しいのでは? 」


 しかし問いに問いで返される始末で、教えたくないのだと悟り、しつこく聞くのを諦めた。

 見た目によらず男らしく単純明快な彼には、回りくどい嫌味は通用しない。

 仮に嫌味に気付いたとしてもあっさりと切り替えが早かった。


 それにしても信長の依怙贔屓のおかげで、出仕して僅か二ヶ月で周りは既に敵だらけである。

 金山城主の兄、長可の顔が頭に浮かんだが、あれ程相談相手に不向きな人間はいない。

 極めて図太い神経の持ち主故に、並の人間の悩みを理解出来る訳が無く、地獄の閻魔の方がまだ人がましいかもしれない。


 兄のおかげか遺伝なのか、胆力ある弟には要領の良さもあった。

 自分を快く思わないのは同じ立場の者達だけ。

 ならば別の立場の者と上手くやっていけば良いのだ。


「某の名は森乱法師、教えて頂きたい事があるのです。少し宜しいか? 」


 団平八という馬廻り衆に声を掛けてみた。

 彼を選んだのは手が空いてそうだからと話し掛け易かったからだが、その二つの理由はある意味同義だった。

 団平八は、名乗られずとも乱法師の事は良く知っていた。


 ほぼ完全な男社会である。

 華奢で声変わりすらしていない滑らかな肌の少年達が、成人男性の髭面に混じり働いているのだ。

 並みの容姿ですら愛らしく見えるのに、乱法師は極めて美形である。


 


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