「乱法師様、湯浴みの支度が整いましてございます」


 自室で寛いでいたら気分が回復し、屏風から出ていた悪い気を洗い流そうと湯殿に向かう。

 この時代は蒸し風呂が基本だが、陣中にも大きな桶を運び込み、湯を張り浸かる事もあったようだ。

 

 陽が落ちた暗い室内に灯る明かりが、白い裸身に艶かしい陰影を作る。


 湯殿の戸を引くと格子窓が先ず目に入り、そこから見える景色は空に星が瞬くばかりの闇夜であった。

 身体を洗う為、腰を下ろそうとした時、目の片隅で紅い何かが光ったように感じ、ぱっと小窓の方に顔を向ける。


 目を凝らしても静かな闇が広がるばかりで何も見えてこない。


「誰か...…そこにいるのか? 」


 警備役の家臣が手にした松明の灯かと、呼んでみたが応えはなかった。


「気のせいか」


 そう呟くと身体を洗い始めた。


 糠袋で肌を熱心に擦っていると、悪い物まで垢と共に落ちていくようで心地好かった。

 念入りに隅々まで洗い終え、丸桶に張られた湯に首まで浸かる。


 適度に温い湯で心身が解れ、手で掬って顔に掛け瞼を閉じる。

 ほんの少しの間ぼうっとして無心になり、温かい湯に全身を委ねた。


 ピチャン──


 微かな水音に薄く瞼を開いた。

 だが不自然なものは何も無く、再び目を閉じ湯桶の縁に頭を乗せる。


 ピチャン──ピチャン


 今度は続けざまに音がしたので軽く辺りを見回してみた。

 桶から湯が溢れている様子もなく首を傾げた時、人の気配と強い視線を感じ咄嗟に格子窓を見上げた。


 相変わらず何も見えない。


「気のせいか? 」


 無防備な裸身を盗み見られるのは、男子と謂えども不愉快で気色が悪い。


『刀は脱衣場──』


 薄暗い湯殿に全裸で一人きりでいるのが急に心細くなり、もう上がろうと腰を上げた。


 ピチャン─ピチャン─ピチャン─ピチャン─ピチャンピチャンピチャン


 激しく降る雨にも似た水音に驚き下を見ると、水紋が消える間も無くひっきりなしに湯に浮かんでいた。


 同時に湯が血の色に染まっていく。


「ひっっ!」


 恐怖で身が竦み、震えながら上を向く。

 天井に人くらいの大きさの白い塊が張り付いていた。


 生き物、どうやら生き物であると辛うじて見分けたのは、赤く光る目と裂けた口が、乱法師を見てニタリと笑ったからだ。


 それ以外に人がましいところは見付けられず、無毛の細長い胴体は照り輝き、くねくねとして実に気持ち悪い『何か』だった。


 手足があるのか無いのかすら判然としない。

 頭部もつるりとして、顔と覚しき部分はのっぺりと、鼻がある筈の部分が僅かに膨れているだけ。


 血と覚しき液体は、その不気味な生き物の上半身から流れ滴り落ちていた。


 その生き物はどうやら雄であった。

 少なくとも乱法師には、そう見えた。


 下腹部の辺りに男根と見られるはっきりとした隆起があったからだ。

 その男根のような茎は二つに分かれており人の形状とは異なっていた。


 その生き物は舌舐めずりし、動いた。


「うぁっぃ、うあああーー誰かある!誰かーー曲者!曲者!出合えーー」


 最早限界だった。


 情けなくも勇ましくもある叫び声を上げ、気力を振り絞り湯殿の引き戸を開け脱衣場に転び出ると、掴んだ腰刀を夢中で引き抜いた。


 素っ裸で刀を構えていると、叫び声を聞き付けた家臣達が走り込んで来た。

 小姓役の武藤三郎が慌てて着物を乱法師に着せ掛け後ろに下がらせる。


 他の家臣達が刀を引っ提げ、湯殿の戸を荒々しく開け放ち中に入った。

 怪しい者がいないかと見回すが、一間四方程の広さに湯船があるばかりでは、潜むところは限られている。

 湯船を覗き込むが、透き通った湯の中に隠れようは無い。


「逃げたか! 」


 と、家臣の一人が格子窓から外を探すが、縦格子の間は並みの体格の男性が通れる広さでは無く、幼い子供でも抜けるのは難しい。


「何処にもおらぬぞ! 」


「表の方に逃げたのか」


「馬鹿な!我等は直ぐに駆け付けた!こちらに逃げたのならば途中で出くわす筈じゃ! 」


 他の家臣達が口々に言い合うのを聞いていた三郎が乱法師に訊ねた。


「曲者の風体は御覧になられましたか? 」


「うむ……見た……それが……」


 『曲者』と叫んでおきながら、人外の生き物だったとは言えずに口ごもる。

 はっきりと姿形を覚えているが、いざ口に出そうとした途端、真に目にしたのかどうか自信が無くなってしまったのだ。


 そこで彼は立ち上がり、自ら湯船を覗き込んだ。


「そんな馬鹿な! 」


 湯の色は無色透明だった。

 乱法師は呆然とする他無かった。


 とりあえず部屋に戻り一息吐いてから、三郎と傅役の伊集院藤兵衛には見た事をその儘伝えた。


「儂は夢でも見たのであろうか。どうかしていたのだろうか」


 安土に来てから僅かな間に、美濃の金山城にいた時には考えられない程、刺激的な出来事が我が身に起こっている。


「人ならぬ化け物に見えたのでございますな」


「うむ、獣と人が混じり合っているような。顔は一応は人に見えたのじゃが、身体は人とは思えなかった。みみず、蜥蜴、或いは蛇──」


 三郎と藤兵衛は、それを聞き顎に手を当てて考えた。


「そのような妖に狙われる御心当たりはございますか?今宵だけならば良いのですが、妖だけに何処からでも入り込めるとしたら御守りする術がございませぬ」


 これと言った確信がある訳ではなかったが、都で見た腕香の男、果心居士の心話、それと湯殿で見た白い生き物は繋がっているように思えた。


 二人にはまだ伝えていない事があった。

 白い生き物の異様な形状の男根について。


 得体の知れぬ化け物が劣情を催していたなど中々言い出せるものではない。


 逡巡したが、とりあえず黙っている事にした。


 辻芸を見て以来記憶が曖昧で色々おかしい事、果心居士を見た時に何処かで見たようなと感じ、彼からと思われる心話が己にだけ送られてきた事、持ち込まれた屏風から妖気を感じ具合が悪くなった事等を話した。


「此度の白い化け物は、地獄絵図や果心居士と関係しているのではないかと儂は考えておるのじゃ」


「確かに、そのような者であれば心話を送り、化け物を操る事も可能やも知れませぬ。ただ、何故乱法師様に?初めて会われたのでしょう? 」


 三郎の問いに重ねて藤兵衛も疑問を口にする。


「その男は斬られたと伺いましたが、化け物が現れたのは幻術師が息絶えた後となりまする。ただの人間が死後も化け物を操る事が出来ましょうか? 」


「うむ、確かに確かにそち達の申す事は道理なれど、ただ...…」


 


 


 


 


 


 


 




 

 

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