第4章 緊縛


「真にあのような怪しい者を召し抱えられるおつもりでございますか? 」


 建築中の安土城の山麓に建てさせた仮御殿の一室で、近習の万見は眉を潜め主に訊ねた。


「使える男と思えばな」


 信長は果心が預けていった阿鼻叫喚地獄を描いた屏風絵に見入りながら、酒の盃を口に運んだ。

 天下を狙うだけの器で、清も濁をも呑み込む度量の大きさと見るべきなのか。


「真に果心の手から離れたら変化すると思われますか?私には特に今のところ──」


「これは何じゃ? 」


 何気無く屏風に目を遣った二人は同時に異変に気付いた。


 絵の表面は始め、たっぷりと水気を含んだように波打って、やがて果心の言った通り、ではなく、逆に色鮮やかに、より不気味に生々しく、屏風の中で亡者や鬼が蠢いて見えた。


「う!何という禍々しさ」


 万見は思わず後退り呻いたが、信長は益々屏風に近付き目を輝かせた。


「乱、他の者達を呼んで参れ!これは面白い! 」


 部屋の隅に大人しく控えていた乱法師に命じ、御殿に詰めている者達を呼びに行かせる。

 凡その時刻は暮れ六つの初刻(17時頃)。


 冬場であれば暗くなっている頃だが、まだ外は行灯が無くとも歩ける十分な明るさであった。


 広間に集められた中で主だった者達は、堀秀政、長谷川秀一、祐筆の松井友閑、馬廻り衆の高橋虎松、団平八、筒井順慶等。


「確かに絵が変わっておりまする。先程よりも生き生きと...…何やら、より地獄らしく……」


「並々ならぬ妖気。斯様な絵は今まで見た事はございませぬ。物凄い念が籠められているように思われまする。上様、近寄っては危のうございますぞ」


 この場で一番年長者の松井友閑が忠告する。

 しかし皆の顔が青褪める中、信長だけは少年のように目を輝かせ小躍りしていた。


「凄いぞ!どんな仕掛けか。絵の中に何か仕込まれておるのかのう」


「上様、これは人の手による仕掛けなどではなく、呪いのような力が働いているように思われまする。どうか御用心を」


「けっっ!たあわけらしい(馬鹿馬鹿しい)!呪いなんぞが効くなら、とっくに儂は呪い殺されておるわ! 」


 比叡山焼き討ち、一向一揆の討伐等、老若男女を問わず何万人も撫で斬りにしてきた信長ならではの凄い説得力のある言葉だった。


「はっははあ」


 屏風とは別の種類の勢いに圧され、松井友閑は頭を垂れた。


「果心居士を呼べ! 」


 今一番この場に相応しい者を呼んでくるよう命じる。

 乱法師の顔は誰よりも青褪め、紙のように白かった。

 地獄絵図から生じる妖気を誰よりも感じ取っていたからだ。


 地獄絵の全ての鬼達の視線はギョロリと彼に注がれ、睨むようでもあり怨みがましくもあり、そして淫靡でもあった。


『の、ぶなが...ああ...のぶながめ...おぅーーのぅれーのぶながーーゆるさぬぅぅーううぅーー』


 陰鬱で不気味な声が延々と響く。

 辛うじて身体を支えていたが、今すぐ膝を折ってしまいそうな程胸が圧され苦しくて堪らない。

 果心の妄執の成せる術であろうが、彼以外にも霊的な事象に鋭敏な者達は気分の悪さを感じていた。


 だが困った事に信長が一切そうした霊的なものを寄せ付け無い為、常と変わらず涼しい顔をしていて、皆が具合の悪さを訴える事が出来ずにいた。


───その時


「今、果心殿の宿所に参りましたら血塗れで息絶えておられ、世話役の荒木忠左衛門殿のお姿が見当たりませぬ」


「果心が殺された? 」


 果心を呼びに行き、戻った小姓の血相が変わっていた。

 広間に集められた者達に動揺が走る。


 小姓は殺されていたとは告げなかったが、語られた状況から斬られたのだろうと誰もが判断した。


 しかも馬廻り衆の荒木忠佐衛門にだ。


「はい、確かに何者かに斬られたようで、苦悶の相と血飛沫凄まじく、目を剥いて絶命しておりました。直ぐに御報告しなければと思いましたので傷口は良く確認しておりませぬが、恐らく太刀で斬り付けられたものかと」


 まだ十代だが厳しく躾られているだけあって冷静に現場の状況を報告する。


「荒木の姿が見えぬと申したな」


「はい!確認の為探したのですが姿が見えませぬ」


「仙!(万見)数名連れて果心の骸を此処に運べ!竹!(長谷川秀一)馬廻り衆と共に荒木の行方を探せ! 」


 信長は素早く側近の万見と長谷川に指示を出すと順慶の方に向いた。


「二人の間で何らかの諍いがあったと見るのが妥当であろうが、他に心当たりはあるか? 」


 順慶は正直狼狽えた。 

 心当たりが有り過ぎたからだ。


「いえ、果心は人に好かれぬ気性に容姿でございますが、上様のお膝元で寺に忍び入り殺める者となると、思い付きませぬ」


「ふむ。仕方が無い。万見と長谷川からの報告を待つしかないな」


 順慶の上手い言い逃れに納得すると、信長は何気無く乱法師を見遣り、顔色の悪さに目を瞠った。


「どうした?立っているのも辛そうではないか」


 驚く程優しい声音で労る。


 他にも具合が悪そうにしている者達はいたのだが、信長の目には乱法師しか映っていなかった。


 内で響く果心と覚しき声は今のところ止んでいるものの、頭痛と胸のむかつきが酷く立っているのもやっとだった。


「無理を致すな。そなたは、もう下がって休め」

 

 相変わらず周囲から見れば依怙贔屓の極みだったが、自覚は全く無い。


「申し訳ございませぬ」

 

 絶対的君主から直々に労りの言葉を掛けられれば固辞する訳にもいかず、大人しく退出するしかなかった。

 このような騒動の折に己がいなくてはならぬ人間ではなく、却って足手まといだろうと考えてしまうのが辛い。

 中間を伴い森家の邸に何とか辿り着いた時には、明らかに体調は回復していた。

 それは妖気を放つ屏風から離れたからに違いないと直感した。


 邸に戻る途中何度も悩んだのが、時折響く果心の声を信長に伝えるべきかどうかという事だ。

 信長を呪う言葉を聞いてしまっては捨て置けない。

 しかし呪いや妖を信じない信長に訴えたところで、鼻で笑われるのが関の山であろう。


 果心は斬られ絶命していたという小姓の見立てに間違いなければ、その後も聞こえた声は幻聴なのか。


 だが、そもそも心話を送り込む事自体人間離れしているのだから、霊魂となっても変わらず可能なのではと想像すると、ぞっと項の毛が逆立つ。


 ともかく良く休み明日出仕すれば、大方の状況が明確になっているだろうと気持ちを切り替えた。




 


 






 

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