「果心、控えよ...…」


 大和守護としての立場を揺るがしかねない無礼な態度を諌めようと順慶が制止を試みた。


「うっははは!待て!順慶──良い!面白い!一万石じゃと?随分吹っ掛けてきよったな」


 可笑しげに笑い出したのは、今度は信長の方だった。


「貴様の申す事にも一理ある。故に考えた。やはり貴様が絵と引き換えに仕官を望むのであれば五百石。だが、絵だけならば五百貫払うと申したらどっちを取る? 」


 乱法師は実に妙案と感心した。

 絵の対価としてだけなら五百貫支払ってやるが、家臣として召し抱えるならば精々五百石。


「さてもさても、上様は分かっておられぬ。絵は絵、私は私と簡単に切り離せるものではございませぬ。生々しさは私の力によるものにて、絵のみをお手元に置かれても忽ち鮮やかさを失い、この世の価値に見合ったつまらぬ絵に成り下がるだけ」


 果心居士の言う事は実は嘘であった。 

 鮮やかな絵こそが真であり、幻術で白紙に見せていただけだ。


 つまり果心の手を離れた途端に絵が色褪せるとしたら、それこそが幻術なのだ。


 それに絵には種が仕込まれている為、単純に果心の手から離れただけでは効力を失う事は無い。

 その種というのが実に禍々しい物であった。


 己自身や怨みを残し死んで逝った者達の血や臓物や髪の毛、呪詛に効果的な百足や蜘蛛といった毒虫、他には蜥蜴、蛇、犬、猫、狐等を殺し、骨まで煮込んだ特製絵の具で描かれていたのだ。

 それだけの怨念が籠っているのだから、乱法師が地獄の炎に触れた瞬間、熱いと感じたのは無理からぬ事。


 故に屏風と果心の間に物理的距離があろうとも強固に繋がっており、当に所有する者を呪い殺す呪具とも成り得る恐ろしい代物だった。

 

「では色褪せても構わぬと申したら五百貫で譲るか?ふむ、それと屏風が離れたら鮮やかさが失われるのか確かめたい。一晩試したいと申したら受けるか?真であれば、五百石で召し抱えた上に五百貫も支払おうではないか。」


 果心は今、二つの理由により屈辱を感じていた。

 己の方が優位に立ち交渉していた筈なのに、あっという間に主導権を握られてしまった事に対して。


 もう一つは信長の興味が己よりも屏風に向いているという事に対してである。

 まるで果心など、おまけであるかのように──


『ぐぐう信長め、儂を軽んじおって。そんなに屏風を手に入れたくば好きなだけ側に置いて飽くまで眺めるが良いわ。その屏風を通して貴様を操り、乱法師も手に入れてくれようぞ。くくふ……』


「承知致しました。屏風は一晩預けましょう。存分に御覧頂き私の申す事を信じて下さいましたら御約束を御守り頂きたいと存じまする。」


 心の内で湧き起こった妄念を面に出さず無表情で返答した。

 これで場が丸く収まって一同安堵し、わけても筒井順慶は胸を撫で下ろした。


───


 安土城下に用意された宿所で一晩過ごす事となった果心は、信長からの使者を迎えていた。

 荒木忠左衛門という二十代の馬廻り衆である。


 客人扱いとなってしまった果心の要望を聞いて世話をしたり、明日になれば取り次ぎをする為、一日限りの世話役として付けられたのだ。

 その実は、妙な術を使う者との認識から信長の命を受けた監視役でもあった。


「そちは元興福寺の僧であったらしいが何故破門されたのじゃ? 」


 荒木の口調は高圧的だった。

 大広間で見た幻術には圧倒されたが、二人っきりで膝付き合わせて親しく語り合いたい相手では無い。


「人は己の知識を越えた力を認めぬ事が多うございますので、私の幻術を下法と罵り私を追い出したのでございます」


「ふん、確かに見事であった。しかし所詮は子供騙しではないのか?真の金を生み出す事は叶わず、故に乏食のように大金や碌をせびったのであろう」


 酷い蔑みようであったが、彼には馬廻りとしての誇りと、たかが少し幻術に長けているくらいで五百石で召し抱えられるなど胸糞悪いという思いがあった。


「これは人聞きの悪い。正当な対価を上様に申し出ているだけ。寧ろ少ないくらい……」


「大言壮語も良い加減に致せ!そちにも屏風にも真の価値は無く、術が無ければ絵の鮮やかさが失われるのであれば、本来はつまらぬ絵という事ではないか!上様はあのように申されたが、そちのような薄汚い坊主崩れに五百貫の大金を支払われる筈がなかろう。身の程を弁えよ! 」


 私情が入り過ぎているとはいえ、信長への献上品で列を成し長い時間並ぶ者達が後を絶たない現状、側近衆の気持ちも大きくなろうと言うものだった。


「くっふふ……そのつまらない絵を欲しがり五百貫支払うと申されたのは上様ではございませぬか。天下人が一度口にした事を違えるならば、金惜しさに貧乏坊主から絵を奪い取ったと吹聴致しまする。さすれば恥をかかれるのは上様。大人しく使いっ走りの貴方様は様子を見ておられれば宜しいのです」 


「こっの!使いっ走りじゃと?愚弄しおって!身に過ぎた欲をかくと地獄を見るぞ! 」


 毒舌だが図星であり、誇りを傷付けられ荒木の内で憎悪の念が膨れ上がった。


「ふふふ…...地獄など私の庭のようなもの。脅せば、ただで屏風を献上するとでもお思いか?ただで献上させて己の手柄にしようという浅ましい算段か?それとも上様に命じられたのでございますか?そうであれば私の見込み違い!上様の天下も長くは続きますまい」


 最早荒木の怒りは頂点に達し、殺意が芽生え、思わず右手に置いていた太刀に手を掛けた程だった。

 しかし、まだ辛うじて冷静な思考が彼を制御していた。


 但し殺意は燃え滾っており、殺した場合どう言い訳すべきかを考え躊躇しただけに過ぎない。

 そんな危険な心理状態を更に煽るように果心は嘲笑った。


「ほう、私を斬りますか?その刀こそナマクラ!いえ、貴方御自身がナマクラでは?ぎらぎらとした目をして……如何にして上様に己の存在を認めて貰うか、お仲間から一歩抜きん出るかとそればかり。一体どっちが浅ましいやら……」


「ぐっっ!!無礼者が!そちが申した通り上様は始めから召し抱える気も、五百貫を支払われる御気持ちも微塵も持っておられぬわ!そちのような薄気味悪い者を家中に迎えるなど笑止千万と申されていたぞ──それ故、儂に密命を含めて遣わしたのじゃ!聞かねば無礼討ちとて始末せよとな!汝のような奴は真の地獄に落ちよ!ぬうおおゥーー」


「ぎィィやあーーあぐっうゥゥ! 」


 荒木が大きく太刀を降り下ろすと血飛沫がざっと散った。

 最初の太刀で肩口から斜めに切り下げられた果心は絶命寸前だったが、怨みがましく白濁した目で荒木を睨み、弱々しく手を伸ばして来たのを胸を深く抉り止めを刺す。


「ふぐぁう……の...なが...め...」


 断末魔の叫びが口から血泡と共に溢れた。


 激しい息遣いで肩を上下させながら、荒木は果心の絶命する姿を見下ろした。

 額には汗の粒が吹き出ており、顔全体に浴びた脂混じりの返り血が凄まじい。


 暫く血の滴る太刀を右手に捧げ持った儘、仁王立ちで骸を見詰めていた。


 少し落ち着いてくると身体の力が抜け、どっとその場にへたり込んだ。

 時と共に熱が冷めると、何故このような行為に及んだのかと混乱してきた。

 斬る前は、あれ程己が正しいと心に強く思ったのに、自身の言い分が今は弱いものに感じられた。

 

 斬った事まで果心の思う壷で、操られていたのではないかと突然恐怖に苛まれる。


「じゃが、儂を操り何の利がある?確かに死んでおる……どう見ても、この血は本物」


 顔に飛び散った血を手拭いで拭き取ると染みが出来た。

 現実である事は疑いようが無く、相手が誰であれ殺めてしまった以上は報告の義務があり、理由が必要だった。


 信長が約束を始めから反故にするつもりだったというのは真っ赤な嘘なのだから。


 信長を愚弄したのは間違いなく事実である為、不遜な態度に耐えかねてと少し誇張して言い訳する他無い。

 懐紙で刀の血と脂を拭おうとした時、果心の最期の言葉が脳裏に響いた。


『の...なが...め...』


 死体が話す訳も無く幻聴とは思いはしたが、疚しさからか怖気をふるう。


『信長め! 』


 確かにそう聞こえた。


「死人に何が出来ようか──」


 そう言い捨てると死体に背を向け宿所を後にした。


 


 


 





 

 


 




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