7
信長は食い入るようにじっと見詰めた。
屏風から今にも鬼や亡者が飛び出してきそうな凄まじい迫力。
思わず手を伸ばし、そっと血糊に指で触れてみる。
血が付いていない事を確認すると唸った。
「ぅむ、これは凄い!この絵が真の物ではないと申すのか?幻術とは思えぬが──真の罪人や鬼を屏風に閉じ込め、永遠の責め苦を見せられているようでは無いか。これは心疚しい者達が見れば、たちどころに改心しそうであるな。ははは!乱、そなたも触れて見よ! 」
信長はすっかり興奮し、後ろに控えていた乱法師に声を掛けた。
後ろから進み出る時、目で促す信長を乱法師が見詰め返す。
一瞬の事だったが、果心居士にはそれで充分だった。
『何じゃと何じゃとーーまだ清らかな生童と思うていたものを!既に信長に抱かれたというのか。く、ぬうーー美しい顔をして父親程も年の離れた男の精を身体に受けたというのか──ぐうぅ許せぬ──許せぬ! 』
果心居士の怒りの思念は己の内だけで燃え滾り、幸い乱法師には届かなかった。
だが軽く屏風に触れた瞬間、「あっっ!! 」と慌てて手を引っ込める。
触れた箇所は地獄絵図の紅蓮の炎。
指先を見ると火傷したように赤くなっていた。
「どうした! 」
「描かれた炎に触れましたら指の先に真の熱を感じ、このように…...」
眉を潜めながら指を差し出す。
信長は彼の手首を掴み、火傷の跡を見て感嘆した。
「これは!確かに火傷しておる。乱、良く冷やしておけ! 」
そう言いながら、顔を伏せている果心居士に目を向けた。
「儂は妖や呪いは信じぬ。だが、この絵は見事という他無い。乱が指に火傷を負ったのも、異常なまでの絵の生々しさも何か仕掛けでもあるのであろう。この絵が欲しい!儂に譲る気は無いか? 」
果心の上辺は至って平静に見えたが、心の内は嫉妬で燃え滾っていた。
非常に利己的で誇り高く、色素の薄い外見は酷薄で冷酷に見えるが実は激情に駆られやすい質であった。
劣等感が極めて強く、その裏返しで人の心を操り、恐れられる事を求めて止まない。
欲しい物を手に入れる為には手段は選ばず、邪魔者は容赦無く排除し、狙った物が手に入るまで徹底的に追いかける執念深さがあった。
目の前に立っているのは、今やこの国の最高権力者といえる男だ。
そういう意味では己の術を認めさせ、向こうから求めてきたのだから大いに自尊心を満足させる結果だった。
だが、それでは終わらず、今度は屏風を手に入れる為に、こちらの条件をどこまで呑むだろうかという嫌らしい算段が芽生えてきた。
信長を己の前に膝ま付かせたら、さぞかし心地好いだろうと考えた。
心の歪みが甚だしいが故に、何が欲しいかでは無く、何を欲すれば相手が困るかと知恵を絞った。
ある意味、果心には欲しい物が無かったとも言える。
幻術を持ってすれば金銭はいとも容易く手に入り、地位や名誉にも興味は無い。
強いて言うなら、恵まれた者達が苦しむ様を見るのが望みだった。
しかし乱法師の顔を思い浮かべると心が掻き乱れた。
彼こそが果心の心より望む物であったが、それを素直に認めるには自尊心が高過ぎた。
『信長の手が付いた汚らわしい小姓など──所詮お古ではないか。愚かしい、ぐぐぐ…...だが所望したら、果たして信長はどんな顔をするのだろうか。試しに所望してみるか? 』
そのように考えてみたが、大勢が集う広間で己の劣情と執着を露にすれば恥をかくのは自分であり、その望みが聞き入れられたところで一晩閨に送り込んでくるくらいが精々と思い至ると屈辱で身体が震えた。
たった一晩、天下人の御物を借りるだけで満足だろうと軽視される己と、乱法師の身も心も毎晩自由に出来る信長との立場の違い。
『乱法師はこの場では望まぬ。下げ渡されるのでは無く奪い取ってやる! 』
「御所望であれば御譲りするのは
果心は色の薄い定まらぬ瞳で信長をじっと見詰め返した。
「ふっははは!貴様の申す事は道理である。ただで貰おうなどとは思っておらぬ故安心致せ。この屏風と引き換えにしても良いと思う物を申してみよ! 」
「私の望みは織田家への仕官にございまする」
信長だけでなく、大広間に居並ぶ家臣達は一瞬狐につままれたような顔になった。
妖しい幻術を見せられた後だけに、望んだ物が大方の予想を裏切り至極平凡であったからだ。
「何じゃ!仕官か。ふむ、人を驚かせ目を眩まし、人心を撹乱する能力に秀でておる故、戦でも使い途はありそうじゃな。良いだろう!碌高は五百石でどうじゃ? 」
五百石を現代の年収に換算するのは難しい。
石高を単純に金に置き換えれば三千七百五十万円くらいにはなるのだから、画に払う対価としたら妥当であろう。
ただ碌高として考えれば、税や軍役も課せられ家臣の給料も捻出しなければならない為、決して裕福とは言えない。
とはいえ、素性の知れぬ、他家での実績がある訳でも無い者を召し抱えるのに五百石は中々の厚遇である。
大金をこの場で手にして終わるのか、天下に最も近い信長の家臣となり更なる出世を目指すのか。
それぞれ長所短所はあるものの、仕官を望むからには五百石で召し抱えられる事は決して悪い話しでは無いだろうと誰もが思った。
信長の家臣になれば、金銭では購えぬ大きな利を得られるのだから。
「うふふ、ふうっふっふふあーはっはっはっははあーーくくくく」
果心は腹を抱えて笑い出した。
指を冷し戻って来た乱法師も他の者達も、無礼としか言い様の無い振る舞いに唖然とした。
信長は眉を僅かにしかめ、静かな低い声音で尋ねた。
「五百石では不服と申すか」
家臣一同に緊張が走る。
信長の表情と声色の微妙な変化にすら神経を尖らせる彼等から見て、激昂前の危険な兆候を感じ取ったからだ。
皆が声を殺し身体を固くして成り行きを見守る。
「天下を狙う上様の御言葉とは思えませぬ。この屏風の価値が僅か五百石とお思いですか?五百石どころか五百貫(五千万)以上の値打ちがございましょう。明、天竺、南蛮の国々を探し回ったとて、このような品は他にございませぬ」
不敵な笑みを浮かべて果心は言い放った。
「ふん、ならば如何程なら譲ると申すか」
媚びへつらいに、やや膿んできている昨今、挑戦的な態度を楽しむように鼻で笑う。
「一万石!せめて一万石は頂かねば割に合いませぬ」
「何じゃと?無礼にも程がある。ただの卑しい得体の知れぬ幻術師が世迷事を申しおって!一万石は言い過ぎじゃ! 」
それまで黙って聞いていた家臣達の間から、口々に批難の声が上がる。
果心を連れて来た筒井順慶は、大それた望みに顔から一気に血の気が引いた。
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