十一月二十八日 鹿鳴館がでっかくオープン
明治初期——当時の日本は欧米諸国から完全に舐めてかかられていた。
倒幕のダメ押しとなった幕府の結んだ不平等条約(=日米修好通商条約)によって、日本には関税自主権も領事裁判権もないまま主要港は(外国勢の)自由貿易港として稼働していたし、仮に国内で外国勢による犯罪(あるいはそれに準ずる行為)があったとしても治外法権として扱われて、日本はただ見ていることしか出来なかった。
そんな状況を打開するために、幾度となく条約改正の再交渉を試みたのだが、その度に欧米からは挨拶がわりの延髄キックが飛んでくるような状態だった。
「西洋化すれば、ちょっとは話聞いてもらえるんちゃうん?」
そんな声にも一理あった。
というのも、当時の日本にはいわゆる迎賓館のような外国使節団向けの接待施設というものはなく、その都度必要に応じて貴族や華族の邸宅を間借りしていたそうだ。
一癖も二癖もある外国勢に同じ交渉テーブルについてもらうためにも、「日本が西洋化している」ことを相手に理解してもらう必要があった(=欧化政策)。
そこで総工費二十万円弱(=現在の価値だと約五十億円くらい)をかけて、外国勢を接待する迎賓館が建てられた。
それが
鹿鳴館の設計は、当時、工部大学校(現、東大工学部)の建築学教授として来日していたジョサイア・コンドル(イギリス人)だ。
明治以降の日本の西洋建築および著名な日本人建築家を育てた立役者だったりする。(数多くの西洋建築を手がけているが、大半は関東大震災や戦後に失われてしまった。非常に残念だ)
明治十六年(一八八三年)十一月二十八日、総勢一二〇〇名にもなる招待客をもって鹿鳴館では盛大な祝賀パーティーが催された。
外国勢に「ドヤさ!」と胸を張りたかった日本なのだが、後世残されている招待客の手記や本国へ宛てた手紙などから読み解くと、「完全に馬鹿にされている」という残念なお披露目であったようだ。
それも致し方ない。
西洋式の立居振る舞い食事のマナーなど身についているわけもないし、着慣れない洋服に身を包み、踊ったこともない西洋の社交ダンスをこなさなければならない(しかも、めちゃめちゃカネがかかる)。
実態としては赤っ恥をかいただけだった。
相変わらず外国勢(特にイギリス)からは延髄キックを喰らうし、国内ではそんな政府や交渉使節団の体たらくを見かねて反動のように「国粋主義者」がわんさと出てくる事態になった。
鹿鳴館建設の音頭をとった責任者、
とはいえ、鹿鳴館をきっかけに様々な社交場としての活用がなされたのは事実である。
仮装パーティーやバザーといった文化が徐々に日本文化と融合していき、「西洋化だけがこれからの日本じゃない」という意識改革が芽生えた。
結果、和洋折衷独特の衣食住文化が花開き、一旦イギリスを見限ってドイツ(当時はプロイセン)から憲法を学び、アジア初の立憲国家となって、延髄キックばっかかましてくるイギリスを再交渉のテーブルに引き摺り出すのに成功したりと、転んでもただでは起きない
トライアンドエラーを経験することが如何に大事か、改めて教えてくれている鹿鳴館である。
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