八月十九日 楊「貴妃」が誕生した日

 世界三大美女の一人として名前のあがる「楊貴妃」。元は、楊玉環という名の楊家の四女は、誰もが認める美少女だったそうだ。

 美少女はチャンスがあれば後宮へ上がれる。

 後宮へ上がれば何でもできる(曲解)


 そんな野心を抱いた楊家の人々は、玉環を身内で養女に出し徹底的に宮廷で通用する教養を叩き込んでいる。舞いや楽器はこの頃の女性の必須科目だ。

 そして、玉環は実に人の機微に聡い少女だったようである。相手が何を求め、どう受け答えをしたら喜ぶか、自然と身に付けていた。


 玉環は愛でたく皇帝の十八番目の皇子に嫁ぐことになる。しかし、実際のところ夫婦仲はあまり良くなかったとされているが真相は定かではない。


 さて、そんな玉環に更なる転機が訪れたのは西暦七四〇年のことである。

 保養先の温泉地で夫の父親(要するに皇帝)に見染められた。結果、親子ほども年の離れた皇帝に召し上げられたわけである。(外聞が悪いため、一応「出家」というていで離婚し、その後還俗げんぞくして再婚している)


 人の機微に聡く、教養を身に付けた美少女を皇帝は溺愛したそうだ。この時の皇帝は唐の全盛期を支えたあの玄宗皇帝である。(そして玄宗皇帝の祖母は、あの則天武后である)


 溺愛するあまり、皇帝は玉環を皇后に次ぐ位である「貴妃」に据えた。

 楊貴妃の誕生である。西暦七四五年、日本では天平十七年——この前後に都をコロコロ遷都して、最終的に平城京に落ち着いたあたりだ。


 皇帝の寵愛を一身に受ける楊貴妃に擦り寄る輩が増え始める。

 皇帝は皇帝で、楊貴妃を喜ばせるためなら何でもやった。


 結果、楊一族が宮廷をのさばり権勢を振るい好き勝手やり始めたので、天下の上から下まで多くの人が反感を持つようになった。楊貴妃自身に政治的野心があったわけではないが、彼女を含めた楊一族の辿る末路は悲惨なものとなった。


 安史の乱(楊貴妃の従兄おにいと地方の要所を固める軍人が敵対、衝突した軍の反乱)を境に、一族郎党皆殺しに近い状態で、次々と楊氏は処刑されていった。楊貴妃も例に漏れない。

 西暦七五六年——政治には直接関わったことのない楊貴妃であったが、玄宗皇帝は庇いきれずに彼女を処刑する命令を下すことになる。享年、三十八歳。


 時の権力者に見染められ、愛され尽くしたことが運の尽きだったのだろう。

 教養があり、人の機微に聡い彼女に政治的手腕や感覚が備わっていたなら、あるいは偏った寵愛を示す皇帝を諌めることができていたなら、歴史の「 if 」はまた違ったのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る